４　時には役者のように

　僕は、オフ会で、会食のあった部屋にいた。
　僕は所在がない。
　それに、相手の松野諒子さんも沈黙を守っておられる。

　僕は、松野さんに、変なことを言ってはならない、と思っていた。

「もう、こちら、片付けをさせていただいてよろしいでしょうか？」
　見ると、蝶ネクタイで黒服の男性が近くまで来ていた。
　フロア・マネージャーの人だろう。
「えっ、ええ、そうしてください…」
　僕は、そう答えていた。

　実際、僕は、建設会社で営業に回され、成績が上げられなくて首になってから、パート（時間給）で、レストランの洗い場のバイトをしていたことがある。
　いつまでもぐずぐずしているお客さんがおられると、僕たちは皿を洗ったり、仕舞ったりする後片付けができなくて。パートの従業員とはいえ、時間が来ても、なかなか帰られなかったことがあるのだ。

　僕は、松野諒子さんに言葉を掛けた。
「ここのホテル、たしか、１階のロビーのそばに、カフェ・ラウンジがありましたよね。そちらに降りて、コーヒーでもいかがですか？」
「……」
　しかし、松野さんから返事はない。

（どうすればいいんだろう）
　僕は、急に、夕方５時からの仕事のことが気になりはじめていた。

　と、ケータイが鳴っている。
　開いた。
　ＴＥＬではなく、メールだった。
　差出人は、書道教室の岡本先生だった。
『がんばりなさいよ。坂田藤十郎のことを思い出して』

　僕は、小首をかしげた。
（坂田藤十郎？）

　名前はどこかで聞いたことがあるような…。
　そうだ、僕の友達で、よく本を読んでいる品川君から聞いたことがある。
　何でも、坂田藤十郎というのは、元禄時代の、有名な歌舞伎役者らしい。
　品川君に言わせると、坂田藤十郎は、脚本家の近松門左衛門と組んで、京都や大坂の町で、世話物というか和事の芝居で、大々的なヒットを飛ばした役者さんらしい。

　そうだ、思い出した…。
　品川君は、『坂田藤十郎の恋』とかいう小説を読んだことがあるらしかった。
　その小説によれば、坂田藤十郎は、あるとき、近松の芝居を演じることになった。が、そこに、濡れ場のシーンがある。しかし、そのシーンを迫真の演技でもって、なかなか演じることができない。そして悩んでいた。
　そこで、坂田藤十郎は、芝居の参考にしようと、貞女として名高い未亡人に、あえて、偽りの恋を仕掛けていったらしいのだ…。

　ということは、岡本先生とすれば、僕に対して、『性体験を積んで、いい官能小説を書きなさい』というメッセージを送られた、ということなんだろうか？。

　が、僕は、まだ悩んでいた。
（小説を書くために、わざと女の人を口説くなんて、男の風上にも置けない、卑怯な行動ではなかろうか…）

　しかし、僕は、自分でも思いもよらない行動に出ていた。
　僕は、松野さんの前で、同じ警備会社に勤めている、同僚の磯貝に電話をしたのだった。この前、勤務を替わったもらったあと、僕は、少なからぬお礼を彼にしていた。その時、磯貝は確かに喜んでいた。今度も、彼には、替わってもらうために、かなりのお礼を奮発しようと思った。

「頼むよ、この前のお礼の倍は、はずむからさ」
　磯貝は、承諾してくれた。
　僕は、安心した気持ちになってケータイを切った。

「すみません、お待たせして、じゃ、行きましょうか」
　僕は、席を立った。

　僕は、彼女の前で、友達に電話をしたのだ。
　彼女は、黙ってうつむいてはいたが、僕が仕事の予定を変更したことを聞いていたにちがいない。僕は、これからフリーなのだ。

　僕は、歩いてテーブルの向こうに座っている彼女のそばに行った。
　そして、手を差し出した。
　彼女はなぜか、じっとしていた。
　僕は、手を差し出したまま、気長に待っていた。
　僕にはお金はないが、時間はあった。
　実際、僕の今の仕事なんて、情けないことだが、誰にでも替わってもらえるような簡単な内容の仕事なんだ…。安い賃金。しかし、その代わりに、負っている責任というのは少ない…。

　そうなのだ、本当は、誰にでもできる仕事じゃなくて、誰にもできないような仕事ができたら、最高なのに…。僕には、そんな仕事をやれるだけの才能がない…。

　僕は、待った。
　と、彼女が、僕の手をにぎってくれた。その手は、思った以上に温かかった。

　僕たちは会食の部屋を出た。
　と、僕は、部屋を出るとき、背中に、フロア・マネージャーの熱い視線を感じたような気がした。おそらく、彼にしたら、僕がうらやましかったのだろう。本当は、うらやましがられるほどのことではないのに。なぜなら、これから始まるのは、「ニセモノの恋」なのだから…。

　僕たちは、下から来たエレベーターに乗った。
　僕は、乗ってから「１Ｆ」のボタンを押そうと手を伸ばした。と、その僕の手より早く、彼女の手が伸び、その指先は、すばやく「６Ｆ」のボタンを押していた。僕は、驚いたように彼女の顔を見た。が、彼女の顔は、ごく普通の落ち着いたものだった。
　が、彼女を見て、やっと僕は、彼女の背の高さに気づいた。僕は、身長は１７４センチばかりで決して高い方ではなかったが。彼女は、しかし、僕の肩ぐらいまでの背しかなかった。
　テーブルに座っている時にはわからなかったのだ。いや、座っている時には、彼女の押しの強そうな物の言い方によって、彼女はかなり身長もある、というように僕は勝手に思い込んでいたようなのだ。
　僕は、ホッとした。
　僕は、背の高い女の人には気後れがするみたいなのだ。その代わり、自分より背の低い女性に対しては、かばってあげたいほどに、優しくなれる…。

　エレベーターのランプが上がっていく。３Ｆ，４Ｆ，５Ｆと。
　僕には、捨てるべきものが何もない。
　６Ｆを示すランプが付いた。
　僕は覚悟した、やるしかない、と。
　ドアが開いた。
　僕は、ドアが閉じてしまわないように手で押さえ、彼女に先に降りてもらった。

　６００３号室はすぐにわかった。
　書道の岡本先生から渡されたカード・キーで部屋を開ける。

　当初、僕は、籤運がわるいのかと思った。
　いや、僕がいない間に、商談（？）がまとまり、僕は、貧乏くじを引かされたのではないかと疑っていた。
　確かに、ペアになるなら、恩田美咲さんがよかった。彼女は若くてとてもきれいだったから。
　でも、今は、そんなことは言っておられない。

　僕は、部屋に入ると、さっそく、冷蔵庫を開け、飲み物を物色した。
　なぜなら、彼女は、アルコールがとても強そうだったからだ。
　会食のとき見ていたのだが、彼女は最初、ワインを飲んでいたのに。後半には、ワインのほか、フィーズものまで飲んでいたような気がする。

「何か、お飲みになりますか？」
「ええ、ビールでいいわ」
　
　僕は、缶ビールを開け、グラスにビールを注いであげた。
「あなたは？」
「えっ？！」
　僕は、はじめて、ゆっくりと彼女の顔を見た。
　穏やかな表情だった。

（この人は、口がきけない人じゃなかったんだ！）

「あなた、食事の時は、お酒は口になさっておられなかったでしょ」

（ああ、この人も、よく他人のこと、見ていたんだな）
　と、僕は思う。
　が、今は、仕事仲間の磯貝に、勤務の交代を頼んだのだ。晴れて、アルコールを飲める。

「では、いただきます」
　と、僕は、椅子から立ち上がり、もうひとつグラスを持ってきた。彼女は、それに並々とビールを注いでくれた。

「あなた、ビールを飲んでいて。わたし、シャワーを浴びてくるから…」
「えっ！。はい…」
　僕は、なぜか、顔を赤くした。それは決してビールのせいではない。彼女の、はだかを想像してしまったのだ。
　そして、彼女と、狭い部屋でふたりっきりになったと思うと、ビールを一気に飲んだせいもあるのか、心臓の鼓動が幾分か速くなったような気がした。

　僕は、冷蔵庫から２缶目のビールを取り出していた。
　気持ちを落ち着けようと、ゆっくりと、味わうようにしてビールを飲む。

　僕の小説は、タイトルとか筋書きだけはＨ（エッチ）なのだが。肝心な中味はそれほどでもない。実体験に基づいていないから、臨場感がないのだ。
　それに、僕自身、性格的に開放的でないから、おおらかな表現力もない。
　内面はかなりエッチなことを考えている人間だと思うのだが、文章として表に出る時はそうでもないから、文章そのものも、エロチックな感じが出ない。
『ないないづくし』なのだが、しかし、やはり、それでも、僕の書いた文章が、ごく狭い世界とはいえ、外に出ているのは、僕の書いたものを朗読してくださる、女性の方の性格というか、声の質というか、朗読者としてのプロ意識に、支えられてのことなのだ。
　あるいは、僕が書いているものを投稿しているサイトの、管理人さんの、ご厚意のたまものなのだろう。
　
　しかし、ともかく、この場を物にすれば、きっと臨場感あふれる小説が書けるにちがいない。いや、書ける気がするのだ。
　本当は、文章に艶っぽさが出ることを望んでいる、僕としては。
　が、ともかく、まずは、臨場感のあるものを、リアルなものを書きたいのだ…。

「とてもいい湯だったわ」
　見ると彼女がバスから出ていた。
　バスローブに身を包んで…。そして、髪は上に掻き上げていた。化粧が落ちたのか、つけ睫毛をはずしてしまわれたのか、さっきまでのセクシーさはやや失せて、その代わり、あどけない少女のような表情が見て取れた。

　僕は、バスの湯の中に浸かっていた。
（僕が、仮に彼女の旦那だったとしたら、いやだろうな）
　と思う。
　実際、自分の女房のあそこに、他の男のペニスが出入りしたと思うと気持ちがわるくて。

　ホストクラブに行って、若い男たちと戯れるのは、がまんしよう。しかし、あるホストと仲良くなって、そのホストとラブホに行って、セックスをして、夜遅くうちに帰ってくるようなことになると、旦那である僕としては、がまんができない。そうなれば、一人暮らしの方がずっと気楽だ。

　しかし、もっとも、年間１億も２億も稼ぐような男からすれば、僕のような経済的にも肉体的にもか細い男が、いくら自分の女房とセックスをしようと、子犬とじゃれているようにしか見えなくて、大した問題にはしないかもしれない。
　
　彼ら勝ち組からすれば、自分の女房が、いくら負け犬との交尾で快楽を得たところで、その負け犬の犬小屋に転がり込むなんてことは、絶対にありえないと思っているにちがいない。
　実際、僕だって、セックスだけで女をつなぎとめておけるなんて、思っているわけがない。
　女性にすれば、やはり、肉体的な快楽だけではなく、精神的なもの、経済的なもので、自分を優しく包んでくれる男性とこそ、暮らしたいと思っているにちがいないのだから。

　では、僕は、一体何なのか？。

　所詮、自殺する勇気もなくて、ただ生きているだけの人間なのだ。

　しかし、生きるためには、ご飯を食べなくてはならない。ご飯とおかずを手に入れるためには、お金を稼がなくてはならない。多少、いいお金になる仕事にありつけられればいいのだが。この不景気な世の中、そんな稼ぎのいい、安定した仕事はなかなかない。そこで、適当な収入の仕事に就き、あとは、倹約して過ごすか、たまの贅沢の食事のために、小遣い銭稼ぎ程度のバイトをやるしかない。
　そのバイトというのが、僕の場合、大した元手もいらず、自分のアパートの一室でできる内職のような仕事なのだ。
　警備会社に行かない日は、パソコンに向かって、文章を紡ぎ出す。
　いわば、昔でいえば、貧乏長屋に住み、船着場で荷物運びの仕事をし、雨の日には、傘張りの内職をして小銭を稼いでいた、素浪人侍の暮らしのようなものだ。
　生きて、食って、寝て、また生きる。
　それ以上の、何を望むというのか！？。
　まさか、悪多川賞だの、奈緒木賞を、ねらうとでもいうのか！？。
　才能のない者が…。チャンチャラおかしい話だ。

　浴室を出ると、洗面台があり、その横の棚に、バスローブがあった。
　僕も、それを羽織ることにした。

　僕は、また、冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。
　なぜか咽喉が渇く。
　どうでもいいことをやろうとしているというのに、やはり、内心は緊張しているらしい…。

　実際、どのようにして、今、バスローブを着て、椅子に腰掛けて、テレビを見ている彼女をエスコートしていっていいのか、心が定まらないのだ。

　僕は、若い男向けのエロ小説は、書けないのだ。
　運動部の学生で、自分たちを応援してくれる女子大生を合コンに誘い、彼女たちが酔っ払ったところで、ホテルの一室に連れ込んで、輪姦してしまう。
　そんな体験告白記事が、スポーツ新聞によく載っているが。そういうのは、若い男の人たちが好んで読むのだろう。
　が、そもそも、強姦だの輪姦だの、そういうものが自分自身書けないのだからしようがない。いくらそれがお金になるからと、管理人さんに勧められても、これはどうしようもない。できないものはできない。書けないものは書けない。僕は、そういう才能がないからだ。

　ただ、僕は、僕自身が中年であるがゆえに、中年男性が読みそうな小説は何となくわかるのだ。
　スポーツ新聞のエロ・コーナーには、読者から投稿された、中年男性の書いた手記もよく載っているのだが。
　例えば、中年男が、いい年をして、女子高校生に、お小遣いと称して、３万も４万円も渡し、ホテルに入って、あそこを嘗め回し、中年のいやらしさを存分に発揮し、何度も、その女の子をイカせてしまうというような体験告白が掲載されているのだ。
　つまり、一歩間違えば、それが女子中学生かもしれず、なんと言う罪深いことを、と思いつつも、読み流すことはできず、うらやましくもあり、何度も読み返しつつ、股間を熱くしているのだから、救いようがない、という面もあるが、ともかく、中年男性の好みそうなエロ小説の筋立てというのは何となく、僕にはわかるのだ…。

　僕には、どうやら書ける範囲というものが限定されているらしい。中年男性をターゲットに、中年男性が喜びそうなものを書くしかない。

　僕が、これから、仮に、新しい小説を書くとすれば……。
　化粧をしている時は、松野諒子さんのことを、３０歳代の後半と思っていたが。今、化粧が落ち、やや幼い表情が垣間見える。
　であるとするならば、３０歳代前半の若い人妻を、近所のいやらしい、一人暮らしで、性的に欲求不満の中年男が、ある日、ふと、勇気（？）を振り絞って誘惑し、ホテルに連れ込むという筋立てで行くしかないではないか…。

　この際、羞恥心は投げ捨てなくては…。

　僕は、実際、そんじょそこらに、どこでも居そうな、いやらしい中年男だった。それは演技でもなんでもない。「地（じ）」（＝本性）そのものだった。

　彼女は、椅子にすわり、正面からテレビを見ていた。
　が、僕は、テレビのリモコンを手に取り、画面を変えた。
　テレビは、アダルト映画の画面に切り替わっている。

　はだかになった男女のからみが、写し出される。
　が、彼女は、後ろに立つ僕の方を振り向きもしない。彼女は、まっすぐに、ベッドシーンを見ているみたいだった。

　僕は、後ろから彼女に近づき、椅子の背もたれに背を持たせかけ、バスローブを羽織っている彼女の肩に、そっと手を置いた。

　が、彼女は振り向かない。
　ましてや、肩に置かれた僕の手をどかせようともしないのだ。
　僕は、エロ映画の男優に成り果てようとしていた。

　所詮、年収２００万にも満たない僕などは、彼女や彼女のご主人から見れば、朝早く、生ゴミをあさる、黒いカラスのようなものだ。

　僕は、彼女の椅子のうしろに立っていた。が、なぜか、足が震える。で、立っておれなくなって、絨毯の上に膝をついた。
　真正面から堂々と彼女を見つめ、そして、何かましなセリフでも言えればいいのだが。そして、彼女の目を見つめ、そして、それから、彼女の目を閉じさせ、そっと、くちびるに、キッスでもできればいいのだが。
　ふたりきりになっても、ましなことができないのだ。

　自分があまりに情けなくて、涙が出た。
　その涙を、僕は、自分の手の甲でぬぐうこともせず、まるで、彼女のバスローブで拭き取ろうとでもするかのように、彼女の肩先に、顔をくっつけて行った…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）