６　愛のないセックスを始める前に

　僕はベッドの上で横になり、バスローブを羽織りなおした。彼女は裸だったので、寒かろうと思い、肩からシーツを掛けてあげた。僕は、彼女の方に横向きになり、彼女の頭を胸に抱え込んでいく。
　彼女がイってくれて、実は、僕はホッとしていた。

　実のところ、自分ひとり部屋で、グラビア写真の女の子を片手にオナッている時と、実際の女性を相手にする時との違いに驚いてもいた。
　マスっているときは、マイペースで行けるのに、こうして女を前にしてセックスをするとなると、相手があることなので、自分勝手にどんどん進むわけには行かず、それが精神的ブレーキとなって、早漏にならないで済んでいる、それが驚きだったのだ。
　それに、何と言っても、反応があるというのがいい。写真の女の子は、たとえＥカップとはいえ、何にも言ってくれないのだ。

「久しぶりよ」
「えっ？」
「感じちゃった、とっても」
　彼女の顔は見えない。
　僕は、彼女の髪を右手で撫でつけながら言った。
「それは、よかったです」

「あなた、恋人はいるの？」
「いません」

「じゃ、アレはどうしているの？」
「まぁ、もっぱら、マスターベーションで処理しているというか…」

「あらっ、まぁ、かわいそう」
「でも、しかたないです。非正規社員の身分じゃ」

「じゃ、早く、何とかしなくっちゃ」
「えっ、何をです？」
「早く、文学賞を取って、自立しなくっちゃ」

「でも、それは無理というもんですよ」
「あきらめたら、そこで終りよ」
「……」
　直接、答えはしなかったが、内心では、彼女の言うとおりかもしれないなと僕は思う。
　
　実際、因果な商売なのだが、僕の場合、書くのを止めたら、そこで終りなのだ。
　もっとも、他の商売だって同じかもしれない。
　物をつくり、物を売らなかったら、どんな商売だって成り立たない。今、僕の場合、幸いにも、応援してくれるサイトの管理人さんがいる。非正規であろうと、警備会社に週５日勤めていれば、何とか食っていける。飯が食えれば、当然、テレビは見ず、ゲームなんかにも手を染めなければ、時間ができるから、小説を書ける時間はある。『蟹工船』といったような、高尚な社会派小説は僕には無理だけれども、娯楽的、息抜き的なエッチ小説なら何とか書けるのではあるまいか…。

「うーん、やはり、僕は、コマみたいなもんですかね」
「コマ？」

「ええ、独楽（コマ）です、子どもたちが正月になったら回す…。あれは、止まったら、そこで倒れてしまいますから」
「そうね。でも、みんなそうよ」

「そうですか？」
「うちの主人の会社だって、そうなの。銀行からの融資がストップしちゃうと、新しい仕事にも手が出せないの。うちの主人、ＯＡシステム化のアイディアはたくさん持っているのよ。でも、それを銀行が資金面で、バックアップしてくれなくては…」

「そうですよね、利ざやの計算ばっかりじゃなく、そのソフトがＯＡ化にどういう役割を果たすか、銀行の方にも、わかってもらわなくては…」
「でも、そういうところが一番、むずかしいらしいわ。みんな、それぞれ専門、専門があって。でも、その専門の枠を超えなくては、物事は前に進まないのにね」
「……」

　僕は、彼女のご主人が、資金繰りに苦労されているさまを想像してしまっていた。僕も若い時には、三流とはいえ、建設会社に勤めていたからわかるのだ、銀行との付き合いが、いかに大変か…。
　接待ゴルフで、銀行の人のキャディーをやらされた。マージャンでは、上司から、事前に『上手に振り込めよ』と指示されていた。カラオケでは上手でもないのに盛んに手を叩かねばならなかった…。

「そろそろ、帰りましょうか？」
「えっ、まだ、いいでしょ」
「でも…」
　僕は、迷っていた…。
　ひょっとしたら、彼女の場合、ご主人の帰りは遅いし、夕飯の準備などは、派遣のホームシェフがされるのかもしれない…。が、そんなことは、僕が、あえて言葉に出して、尋ねることでもない。

「わたしね、久しぶりに、男の人と、肉声でお話ができた、という感じなの」
「そうですか？」
「そうよ。いつも、わたし、メールなの。だから、肉声って、めったに聞いたことがなくて」
「そういうもんですか？」
「あなたの声、素敵よ」
「ああ…」
　声を誉められたのは、はじめてだ。

「それに、久しぶりに、わたし、わたしの話を聞いてもらえそうな人に会えたし…」
「……」
　そんなに人と話す機会がないのだろうか、彼女には…。
　セレブの彼女には、たくさんのボーイフレンドやガールフレンドがいるだろうに。それに、セックスフレンドだって、彼女になら、いるだろうに…。
　が、僕は、あえて、そんなことは問わない。
　僕は、僕のプライバシーについて問われるのは苦手だ。だから、相手のプライバシーのことにも問わない。

「わたしね、ストレスがたまると、急に、買い物がしたくなって。そして、衝動買いしてしまうの、洋服でも何でも…」
「そうですか？」
　僕にはよくわからない。第一、買い物でストレスが解消できるなんて、よくわからないのだ。僕なんかは、出かけるのもおっくうだし、食べ物にしろ、着る物にしろ、たくさん並んでいるものから、何かを選んで買うというのが、そもそも面倒なのだ。

「めちゃくちゃ、掃除をする。買い物をして、むちゃくちゃ、買わないでいい物すら買っちゃう。そして、やけ食い。そして、さらに…」
「うん？…」
「さらにストレスが溜まると、わたし、男が欲しくなる…」
「はぁ…？？」
　僕には、わからない。が、僕の場合は、そんな時は、マスを掻いて寝てしまう。お金がないから、安上がりに処理してしまうしかない。
　しかし、彼女の場合は、やっぱりお金持ち…。いわゆる『男買い』ができるのかもしれない…。

「ホストクラブには、行かないんですか？」
「行くけど、なぜか、面白くないのよね」
「はぁ…」
「指名するんだけど。でも、そいつが、色んなお客さんと、わたしの時とおんなじ会話をしていると思うと、いやになって…」
　
（そんなもんかな？）
　僕は、ひとりで、そんなことを思う。
（セックスだって、そうだと思うけどなぁ？）
　と、また思う。

　実際、そうではないか。男と女がやることって、だいたい同じことだ。ラブホに入って、抱き合って、キスし合って、互いの性器をまさぐりあって、くっつけ合って、動き合って、一緒にイッて、それでおわり…。

「やはり、一対一で、こうしている方がいいわ。ホストクラブなんて、やかましくて、騒々しくて。シャンパンの一気飲みにも飽きてきたし…」
「……」

　僕は、こんな彼女と、結婚したら、大変だなぁ、と思っている。で、つい、僕は、漏らしてしまっていた…。
「でも、ご主人さま、って、寛容な方なんですね」
「うん？。寛容というか、あきらめているのかもしれないわね」
「どうしてですか？」
「わたし、ストレスが溜まると、家の中にある物、何でも、放り投げてしまうもの。主人が止めてもだめ。感情の爆発がおさまるでは…」
「……」
「一度爆発してしまえば、むろん、それで、一週間くらいは、静かになって、いいおくさんになれるんだけど…」
「ふぅ……」

「どうしたの？」
「いえ、どうもしないです」
　僕は、そう答えたものの、内心では、やはり、あきれていた。こんな彼女と結婚しなくてよかった、と。
　実際、こんな気まぐれで、こんな発達障害があるみたいな女と結婚するぐらいなら、独り身でいた方がずっと気楽でいい。第一、静かな暮らしでないと、小説なんて書けやしないじゃないか…。

「彼も、結婚したての頃は、やさしかったのよ」
「そうだったの」
「それから、彼は勤めていた会社を辞めて。ひとりで、今の会社をはじめたの。わたしも最初は手伝っていたのよ。簿記はできなくても、彼に伝票を仕訳けしておいてもらって、わたしは帳簿をつけるだけ。でも、会社が大きくなるにつれて、わたしが手伝えることはなくなって。いつの間にか、家に閉じこもることに…。それでも、子どもさえ生まれていれば、何とか、気もまぎれて、こんな風にはならなかったかも…」

　そうか、彼女だって、最初は、まともだったのだ。
　それが、どこかで狂ってしまった…。

　僕だって、そうかもしれない。
　官公庁の、土木関係の公共事業が伸びて、会社の業績も上がっていれば、何も、僕も、営業畑に転職することもなく、経理事務一本で行けたのに…。
　そうしたら、あるいは、架空の小説の中に、逃げ込まなくてもよかったかもしれない。

　僕の、建設会社に勤めていた頃の、数少ない後輩の中に、変わった人間がいて。やはり、彼も、独身なのだが。
　今は、携帯ゲーム機のアニメ画面に映る少女キャラを、自分の“彼女”にしている。生身の人間が住んでいる、この現実世界を無視して。彼の頭の中には、なぜか、生身の人間を相手にできないような、ひ弱で繊細な神経が肥大化してしまったらしい…。
　僕には、とうてい、この後輩のことを軽蔑できない。僕だって、現実逃避をしているからだ。現実の人間関係、男女関係なんて、もっとドロドロしたものなんだ、と、割り切れば済むものを。

　が、それにしても、無機質のグラビア写真を相手にしているよりはずいぶんちがう。こちらは、あたたかいし、匂いはあるし、肉声の言葉はあるし…。
　僕は、彼女に言った、無意味なこととは思いつつ…。
「例えば、スポーツ・ジムなんかに行って、汗を流す、という具合には行きませんか？」

「なぜ、そんなことを聞くの？」
　彼女は、顔を上げながら言った。
　不満そうな顔つきだ。
「その、つまり、健康的なのは、そっちかな？、と思って」
　僕は、ドギマギしながらも答えた。こっちは、きらわれて、もともとなんだから…。

「別に変わらないと思うけど」
　また、彼女は、顔を伏せた。
「でも、外出する時、ご主人に言うのに、『スポーツ・ジムに行って来る』というのと、『オフ会に出かけてくる』というのとでは、随分、ちがうんじゃないですか？」
「そんなこと、言う必要ないわ。夫婦の間にだって、互いのプライバシーを守る義務があるんだから、いちいち行き先なんて、言う必要ないわよ」
「ああ、そういうもんですか」
　僕は、そう言いながら、やはり、納得が行かない。僕が彼女の主人だったとしたら、『オフ会に出かけて来る』と言われれば、『女性同士なのか？、男性陣はひとりも来ないのか？』とか、それぐらいは聞くだろう。そして、『男性陣も参加するわ』と聞けば、それは、心穏やかではないはずだ。
　一体、彼女のご主人は、彼女のことを愛しているのか？。そして、彼女も、ご主人のことを愛しているのか？。

「夫婦といえども、自由はあるわ。すべてを主人に縛られるのは、わたしは、いやなの！」
　彼女は顔を伏せていた。僕には、彼女の頭しか見えない。彼女がどんな顔をして言ったのか、わからない。本気なのか、それとも、冗談半分なのか。
　それで、僕は、カマ（鎌）をかけてみた。
「つまり、夫婦になっても、恋愛の自由は許される、と、あなたは思っているんですか？」
「ええ」
　
（ふーん、そういうものなのか。だが、そうなると、僕なんか、うかうかと、結婚もできないことになるな。だって、そうだろう、よほど魅力的でないと、結婚して３年も経てば、もう相手に愛想をつかされてしまうだろう…）

　僕は、自分の将来のためにと考え、あえて、彼女に聞いてみる。
「やはり、釣った魚にも、餌を与えないとだめ、ってことですかね」
「そうよ」
「……」

「互いに愛し合うという努力を続けていかないといけないと、わたしは思うわ」
「……」

　僕は、何と言っていいかわからない。結婚していないからだ。しかし、何となくわかるような気もする。マンネリになったら、やはり、飽きられるだろうから…。
　だから、グラビア写真のＥカップの女の子がいいのだ。彼女たちは年収が低いなんて、絶対に言わないからだ。
　それに、アニメの画面の中の少女キャラがいい。彼女たちは、素直で、ご主人様に絶対、不平不満を言わないからだ。

「僕なんかは、だめですね」
「どうして？」
「つまり、仕事とか、小説とか、そういうレベルでは、マンネリに陥らないよう、がんばれそうなんですが。でも、生身の人間を相手にして、どれだけ新鮮さを保ち続けられるか、それは自信がないです」
「でも、それは、あなたがひとりでがんばらなくてもいいことよ。夫婦なんだから、互いに努力し合えばいいことで…」
「じゃ、セックスにしても、互いの協力が必要、ということですか？」
「そうよ。どちらか一方がその気になってもだめだと思うわ。互いにその気になって、愛し合う努力をしないと…」
「そういうものですか。一方的では、ダメなんですね」
「そうよ」
「ふーむ」
　僕は、ため息をついていた。
　実際、そうだろう。結婚しないで、グラビア・アイドルや２次元画面の少女キャラを相手にしていても、虚しい。がしかし、結婚しても、セックスがマンネリになって、相手に浮気されてもみじめだ…。

「せめて、愛のないセックスだって、互いに気遣い、互いにいい気持ちになれるよう、がんばれたらいいのに、と思うわ」
　彼女が顔を上げた。
　僕は、彼女の目を見た。
　その目は少し濡れているようだった。
「そうだね、何もしないというんじゃ、何も得られないものね。多少は努力しないと…」
　彼女がこっくりと頷いた。
　僕は、彼女の瞳の中に、アニメの世界に生きている少女のような、素直でキラキラした光を見た。
　そして、現実の世界に棲む、生臭い人間だというのに、僕は、その少女キャラに似た、彼女の瞳に吸い込まれるように、彼女のくちびるに、僕の唇を重ねていった…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）