１　彼女のできない僕

「アホんだら、それでも、おまえは、大学を出とるんか！」
　僕は、今日も上司にしかられた。
　エクセルのＺ（シグマ）を使って、縦横集計をしたはずなのに。でも、今月の人口推計値を間違えてしまっていた…。

　確かに、よく見ると、エクセルのセルで、小さく設定していたものだから、入力した数字がしっかりとセル内に表示されていない箇所（＃＃＃）があった…。

　僕は、頭がわるいと思っている。
　それに、仕事を進めていく上での計画性もない。

　それに、職場で、ろくなコミュニケーションすら取れないのだ。
「おはようございます」と「お先に失礼します」のふたつの言葉は言えるのだが、あとの言葉が言えない。

「今日は、いい天気だな」
　と上司に言われても、僕は猫背で、下ばかり向いて歩いているので、今日の空が青空だったのか、曇っていたのか、わからず、「はぁ…」と言うしかない。

「○○幹事長の政治資金は、灰色だね」
　と上司に言われても、僕は新聞の一面なんてあまり見ないし、それに政治音痴なので、何と答えていいのかわからないのだ。でも、何となく、クレヨンとかクレパスとか水彩画の絵の具には、白色もあれば黒色もあり、灰色もあったので、世の中の出来事にも、灰色がかったものもあるのではないかと思うので、「はぁ…、まぁ…」と言うしかない。

　５時半のチャイムが鳴った。
　僕は、机の上を片付ける。
　周りを見る。
　が、誰一人、まだ帰る雰囲気ではない。
　みんな、書類をにらんでいるか、パソコンを覗いているようだ。

　僕は、我慢する。
　だって、いくら何でも、新米の職員がトップで帰るというのは変だろう…。
　が、僕には、残業する気もない。ただ目を瞑って、時間が過ぎるのを待つ。しかし、もう待てない。こんな地獄のような職場から、一刻も早く退散したいのだ。ケータイを見る。デジタル時計は、５時５９分を示していた。僕は、席を立った。

「お先に失礼します」
　そう言って、僕は、職場を後にする。

『また、あいつかよ、トップは…』
『朝は一番遅く来て、夕方は一番早く帰る。いまどきの若いもんは、何を考えているんだか…』
　そんな上司の愚痴は聞こえないふりをして、僕は庁舎を飛び出す。

　玄関先に立っている守衛のおじさんに、僕は、すでに顔を覚えられていて…。
　そのおじさんに、『にゃっ』と笑われてしまう。
　でも、僕は、おじぎをして通り過ぎる。

　市役所前から路面電車に飛び乗る。
　まだ、この時間は空いている。
　僕は、空いた席に腰掛ける。でも、この時間がいつも、ほっとする時間なのだ。
　ふーっとため息を吐く。
　長い庁舎の廊下を小走りに駆け抜けて来たせいかもしれない…。

　僕は、寺町３丁目で、路面電車を降りた。
　向かうは、僕がいつも行く、「メイド喫茶」だ。

　入る時は、ちょっと恥ずかしいのだが。でも、そのお店の中に入ると、僕自身が取り戻せそうな気がするのだ。
　職場では、何だか自分は浮いていて、存在感がとても薄いような気がする。

　それに店内に入ると、何だか、緊張する。
　この店には、僕が密かに想いを寄せている女の子がいるから…。

　その子は、ワインレッドのコスチュームも、ライトブルーのコスチュームもよく似合っている。色白だからだろうか。
　それに、背は高くないけど、顔が小さいから七頭身くらいであっても、スタイルがとても良く見えるのだ。
　その女の子の胸には、「美幹」という名札があった。そして、ある時、しっかりと名札を見つめたとき、「みき」とふりがながあって、それ以来、僕は、心の内で、その女の子のことを、「ミキちゃん」と呼んでいる。

　僕は、深呼吸をし、それからドアを押して、お店に入る。
　ここは、とても静かな喫茶店だ。
「ご主人さま、お帰りなさいませ」
　なんて、大きな声はしない。

　僕は、空いている席を探すよりも、まず、ミキちゃんを目で探す。
「うん？」
　今日はどうしたことか、彼女の姿が見えないのだ。
　彼女は、週のうち、火曜日と水曜日がお休みの日で。今日は木曜日だから、出勤しているはずなのに。

（お手洗いかなんかに、入っているんだろうか…）

　僕は、いつまでも入り口で突っ立っているわけにもいかず、店内を入って、いつもの奥の、隅っ子の席につく。
　女の子が注文を取りにやって来る。

「何になさいますか？」
「ホット・カフェオレをお願いします」
　と、女の子が笑っている。
　僕の注文するものが、いつも同じだからだろうか？。

　僕は、女の子たちの、白いヒラヒラのついたドレスを、見るのがいやで。
　じっと見るのは、恥ずかしいからだ。
　でも、ちらりちらりとは見る。女の子たちに気づかれないように…。

　もっとも、彼女たちは、気づいているのかもしれない、僕のエッチな視線に。

　が、ともかく、僕は自分のエッチな心を知られたくなくて、ｉＰａｄのタッチ・ディスプレイを見ている。で、後は、指を動かして、動画サイトにアクセスし、アニメを見るのだが…。

　が、心は、画面にはない。
　ミキちゃんをさがしているのだ、たびたび顔を上げて…。

　が、いつまで経っても、ミキちゃんの姿を見ることはできなかった…。

　３０分も経っただろうか。
　僕は、席を立っていた。
（そうだ、そうなんだ、ミキちゃんは、今日は、風邪かなんかで、お休みなんだ…）

　僕は、そう自分に言い聞かせていた。
　で、レジに向かい、勘定を済ませる。

　街路地を歩く。
　まだ寒い。
　僕は、彼女のことを考えていた。
　ひょっとしたら、彼氏がいるのかもしれない…。
　今、風邪を引いた彼女を彼氏が労わっているのだろうか…。

「あのぉ…」
　僕は、声を掛けられたような気がした…。
　横を見る。メイドさんだ。さっきのお店にいた…。名前はわからない。

「あのぉ、あなた、ミキちゃんのこと、お知りになりたくありません？」
「えっ！？」

「だって、あなた、いつも、ミキちゃんのこと、見ていたでしょ」
「……」
　僕は、目を丸くした。
　女の子が笑っている。

（えっ、僕、そんなに、ミキちゃんのこと、見てた？）

　しかし、僕は、なぜか、頬が赤くなるのだった…。

　実際、僕は、ミキちゃんの、お人形さんみたいな可愛い顔も、そして、ほっそりとした、まっすぐな足も大好きだったから…。

「美幹（みき）ね、本町店に移ったの」
「えっ…」
「だってね、うちのお店で、いじめに遭ってたの。だから、わたし、店長に言ってやったのよ。でも、そうしたら、店長が本町店に彼女を換えてしまって…。本当は、いじめ組の３人を辞めさせて、美幹はそのまま残ってくれると思っていたのに…」
「……」
　僕は、ミキちゃんのことがかわいそうになった。
（いじめにあっていたなんて、僕は、本当に、知らなかった。いつも、明るい女の子だったのに…）

「じゃ、もし気が向いたら、美幹の店にも、行ってあげてね」
　彼女は踝を返して、来た道を戻っていく。
「……」
　僕は、彼女にお礼を言うこともできず、ただ立ち尽くしていた。


　僕は、迷っていた。
（行こうか、行くまいか）

　行けば、何だか、ミキちゃんに、僕の心を見透かされてしまいそうで。

　だって、僕は不細工だし。体型だって、足がＯ脚で不恰好だし。
　車を持てるほどの金持ちでもないし。
　今の職場で、出世できる見通しもないし。

　そんな僕が、女の子を好きになる資格があるんだろうか。
　むろん、好きになってもいいかもしれないが、それは片想いにとどめるべきであって、愛なんて告白できる身分じゃないと思う。
　行ったら、きっと、ミキちゃんに軽蔑されるだろう、『何で、あんたみたいな男が、わたしに…』と。

　僕は、夢を見ていたらしい。

　夢の中でのこと。
　僕は、偶然に、交差点で青信号になるのを待っていた。
　車を持たない僕は、いつも歩いている。
　車に乗っているカップルを見ると、いつもうらやましくなる。

　と、車が僕の前を通り抜けようとしていた。
　見慣れた女の子が、その車の助手席にいるではないか。
『ミキちゃんだ！』
　と僕が心の中で叫んだとき、その車はアッという間に、通り過ぎて行った。
　言うまでもなく、運転していたのは、男の子だった…。

　僕は、夢から覚めて、起き上がっていた。
『そうなんだ、あんなかわいい子に、恋人がいないなんて、考えられないじゃないか。よかった、よかった…』

　僕は、僕なんかが相手にされるわけがないと、あらためて認識していた。

（僕がいくら相手を好きになったって、僕なんか、相手にされるわけがない…）
　僕は、とうとう、本町店に、会いに行くことにしたのだった。
（どうせ、僕なんか、彼女には、目もくれてもらえないんだから…）

　その日、職場の壁にかかっている大時計は、なかなか前に進んでくれなかった。
　が、僕は、耐えた。
　そして、終業のチャイムが鳴ると、『お先に失礼します』も言わず、部屋を飛び出していた。

　僕は、本町１丁目で、路面電車を降りた。
　向かうは、彼女の居る「メイド喫茶」だ。
　胸がドキドキする。
　が、『大丈夫、大丈夫、向こうは、僕のことなんか、まったく気にしていないんだから』と自分に言いかせながら前へ前へと進む。

　その本町店はすぐにわかった。

　僕はおそるおそるドアを押す。
　視線を床の絨毯に這わせている。絶対に、女の子たちの方を見てはいけない。

　幸い、席は空いていた。
　僕は、ある席に、腰を降ろした。
　と、何か、いい匂いがしてきて。
　僕は、顔を挙げた。
「あっ！」
「アッ！」
　僕たちは、同時に、声を上げていた。
　
　僕は、顔が赤くなった。
　たぶん、彼女が僕の顔を覚えてくれていた、ということが驚きだったからだろう。
『おかしい、おかしい。こんなはずはない。彼女が、僕みたいな男の顔を覚えていてくれるはずがない…』
　僕は、うつむいたまま、首を横に振っていた。
　
　が、何となく、雰囲気的に、彼女と来たら、突っ立ったまま、ずっとそばにいるようだ。
（どうしたんだろう？）

　それにしても、彼女は、注文すら聞いてもくれない。
　しかたがない。
　僕は、顔を伏せたまま、自分から言葉を発した。
「すみません、ホット・カフェオレをひとつ…」
「……」

　彼女から『はい、かしこまりました、ご主人さま…』という返事はない。
　僕は、心配になって、顔を上げる。彼女ときたら、顔を伏せ、銀色のトレイを胸に抱えたまま、固まったように立っていた。

　僕は、彼女が気の毒に思えて来た。
　で、僕は、彼女の顔を見ずに、テーブルの表面を見ながら言った。
「すみません。あなたがこちらに移られたと聞いていたもので…」
「……」
「ごめんなさい…、こちらにまで来てしまって…」
　と、彼女は、踝を返して、向こうのカウンターの方に行ってしまっていた。

　細い足だった。
　ふくろはぎにも、太腿のあたりにも、要らぬ筋肉がついていなくて。お人形さんのように、すらりと伸びた細い足だった。僕はなぜか、涙ぐみそうになりながら、その白いソックスの足を見つめていた…。

　いつもは、カバンからｉＰａｄを出して、テーブルの上に置くのに。僕は、ボーっとしたまま、窓の外を眺めていた。
（ここまで、押しかけて来て…。彼女にとっては、きっと迷惑だったんだろうな…。わるいことをしてしまったかなぁ…）

　と、カフェ・オレの匂いが僕の鼻をついた。
「ご主人さま、たいへん、おまたせ・・・」
　彼女の声だ。
　僕は、顔を上げた。
　彼女にあやまらなくては、と思った。

　すると、僕の言葉より先に、彼女の言う言葉が、僕の耳に入り込んできたのだ。
「どうして？」

　僕は、彼女の目を見ていた。
　決して、あざ笑ったような目ではなかった。

　僕は、『どうして？』という問いの言葉の意味を考えていた。
　そして、たぶん、『どうして、このお店に来られたのですか？』という意味なんだろうと思った。
　それで、僕は彼女に言った、「寺町店の方（ほう）で、偶然、お聞きしたものですから…」と。
　がしかし、依然として、彼女は小首をかしげていた。

　僕は、ここを教えてくれた寺町店の女の子のことをわるく言いたくなかった。それに、その女の子は、僕が彼女に気があることを知っていたのだ。それら、もろもろのことを彼女に知られるのは、恥ずかしかった。それで、僕は、重ねて、説明していた。

「その、つまり、先日、寺町店に行っていた時に、そこの従業員の方たちが、お話になっているのが、偶然、僕の耳に入ってきて。そのお話というのが、どうやら、あなたが、こちらのお店に、おかわりになったというようなことでしたから…」
　僕は、ひどく緊張していた。なぜか、彼女に嘘をついているようで。

「どうして？」
　彼女が再び、僕に聞いて来る。

　僕は、なぜか、泣きたくなった。
　それは、たぶん、『あなたに会いたくて、とても。だから…』と答えたいのに、そんなことは言えるはずもなく、どうしたらいいのか、わからなくなってしまっていたからだった…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）