１０（＝最終話）　敵前逃亡をした僕

　僕は、だんだん覚悟を決めつつあった、彼女と結婚しようと。
　子どもを作らず、ふたりだけなら、何とか、やって行けそうに思えるのだ。
　お金がなくなれば、両親に泣きつこうと思った。
　それに、ともかく、いざとなれば、低金利なので、市町村職員共済組合や職員互助会からお金を借りようと思った。

　僕は、朝ご飯を食べていた。
　父はもう出かけていた。

「お父さんが、心配していたわよ。最近、あなたの帰りが遅い、って」
「……」
「ところでね、お父さん、今の銀行を早期退職して、系列の不動産会社に再就職することが内定したんだって」
「そんなにまでして、働かなくても」
「でも、お父さんにしてみたら、どうも、あなたの結婚式の費用も手助けしたいみたいよ」
「俺は、まだ、結婚しないよ」
「でも、あなたは、貯金なんかしていないでしょ」
「いや、してるよ、職員互助会に」
「あら、そうなの？」
「結婚式の費用ぐらい、何とでもするから、おやじさんには、そんなこと、心配するな、と言っておいてよ」
「そんなこと、自分の口から、言いなさいよ」
「……」

　僕は、いつまでも、親のすねかじりをしていることが情けなかった。
　部屋代も、食事代も、光熱水費も、背広やワイシャツのクリーニング代すらも、家に入れていなかった。

　父親の銀行での定年は、６０歳だった。
　父は、今、５７歳になる。
　５５歳になった頃から、早期勧奨退職を上司から勧められていたようだった。早く辞めて、系列会社に行くと、今より、給料は下がるし、仕事も楽じゃないみたいだった。だから、父としては、もう今のところではこれ以上出世は望めなくても、ともかく定年までは働きたいみたいだった。
　でも、もう、その勧奨退職をことわるのは、限界みたいだった。これ以上居座ると、上司との人間関係もまずくなり、今の銀行勤めがプレッシャーばかりになるみたいだった。
　
　でも、僕の稼ぎでは、もう楽隠居していいよとは、とうてい、言えなかった。
　これから、父は、お客さまを案内して不動産物件を回る、不慣れな外回りの仕事が増えるだろう。今までは、デスクワークだけでよかったのに…。

　僕が、中学の頃だった。
　父親が僕に言ったことがある。
『父さんはな、若い頃は、人さまに頭を下げるのが苦手でね。でも、おまえが生まれてからというもの、不思議と、頭を下げるのが苦痛でなくなったんだよ』

　僕は、メイド喫茶に勤めている彼女のことを、父親に告げるのが、苦しくなっていた。
　職業に貴賎はないのだ。たとえ、キャバクラに勤めていたっていいと僕は思う。
　しかし、父親としたら、もっと安定した、堅実な勤め先の女の子と、交際してもらいたいと思うにちがいない。なぜなら、日頃から、石橋を叩いて渡るような生き方をしている父親の姿を見ていると、息子としては、そう思えてならないのだ。


　僕達は、メールアドレスを交換していた。
　彼女に会えない時は、メールを入れた。
　お店の方に顔を出さないで、アパートに行って会いたい日は、直接、ケータイに電話した。
　が、このところ、メールの返信もないし、電源も切られている時があった。

　僕のメールが見たくないときがあるのだろうか？。
　僕の声を聞きたくない時があるのだろうか？。
　僕は、勝手にその答えを否定した。

　とすれば、あと考えられるのは、元カレからの執拗な電話を嫌がっているのか？。それとも、メイド喫茶に毎度通ってくる、嫌な客で、しきりに店外でのデイトを迫ってくる人間からの電話をきらっているせいなのだろうか？。

　前にもあったが、彼女が２日間も、アパートを留守にしていることがあった。

　が、また、そういうことがあったのだ。

　僕たちは口論になった。
　そして、喧嘩別れをしてしまったのだ。

　僕は、お店にも行かなかった。
　そして、彼女のアパートにも行かなかった。
　が、胸騒ぎがしてならなかった。
　仕事も手につかない。
　彼女の友達が前に言っていた、『彼女、今はひとりだから…』という言葉がしきりに思い出される。
　とうとう僕は、彼女の友達が勤めている、メイド喫茶の寺町店を訪れていた…。

　僕は、彼女の友達の、麻里さんに頭を下げて、頼み込んでいた。
「すみません。お店が終わってから、少し、時間を取ってもらえませんか。麻衣のことで、相談に乗っていただきたいことがあるんです」

　僕は、メイド喫茶の外で、麻里さんが出て来るのを待っていた。
　麻里さんが出て来た。
　僕は、ほっとした。
　麻里さんが近づいてくる。
「ご無理を言って、すみません」
「ああ、いいわよ、気にしなくて…」

　僕達は、近くの喫茶店に入った。

「すみません。実は、麻衣のことで気になっていることがありまして。このところ、麻衣は、よく、ふるさとのＫ市に帰っているんです。なぜＫ市に帰るのか、僕には、何も言わずに」
「……」
「例えば、お父さんが病気だとか、お母さんの仕事を手伝う必要があるとか、そういう理由があるはずなのに…。僕には、何も言ってくれないんです」
「……」
「確かに、僕は、彼女のフィアンセではないです。正式にプロポーズをしたわけでもないし。でも、結婚を前提にした、真面目な交際を望んでいることは確かなんです。そういうことは、彼女もうすうす感じてくれていると思うんです。ですから、２日もアパートを空けて、ふるさとに帰るのなら、そういうメールを入れておいてくれてもいいし、帰る理由をちゃんと電話で僕に言ってくれてもいいと思うんです、僕としたら。だって、お店も休み、アパートにも居ない、というんじゃ、誰だって、心配するでしょ。交通事故に遭ったとか、病気で入院してしまったとか、そんな悪いことを考えてしまうじゃないですか」
「……」
「僕、間違っています？」

「ふーん、あなたって、けっこう真面目なんだ…」
「……」
　麻里さんが、カバンの中から、シガレットケースを出している。その中から、シガレットを１本、取り出している。そして、それにライターで火を点けた。そのライターは、僕には、すごく高級そうに見えた。
「麻衣は、あなたに、何も言っていないんだ」
「……」

「麻衣のやつ、直接、あんたに言えばいいのに。わたしだって、チクるの、いやだよ」
「そうですよね。だったら、僕が直接、彼女に聞きます、もう一度。なぜ、そんなにたびたび、僕に内緒で、ふるさとのＫ市に帰るのか、その理由を…」
「でも、なぁ、麻衣としたら、あんたには、言いにくいのかもしれないな、やっぱり…」
「……」
「そうだ、ちょっと、わたしから、麻衣に電話してみるわ。そうして、麻衣が話してもいいと言ったら、わたしから、あんたに話をしてあげるわ」
「はい…」
　麻里さんは、席を立った。
　そして、喫茶店を出て行った。

　１０分経った。
　なかなか麻里さんは戻って来ない。
　たぶん、麻衣が電源を切っていて、つながらないのだろう。

　２０分が経った。
　まだ、麻里さんは戻って来ない。
　ケータイが通じたとして、あるいは、麻衣と長電話になっているのかもしれない。

（長電話…。ひょっとして、麻衣には、言うにいわれない、複雑な過去が…）
　僕は、不安に襲われていた。

　と、麻里さんが、真向かいの席に戻っていた。
　麻里さんが、シガレットケースを取り出し、タバコに火をつけているのだ。
　何と、すごい。指の爪に、いっぱい、キラキラしたものが塗りたくってある…。
「麻衣、わたしから言ってもいい、って、言ったわ」
「……」
　友達の口から言わせることだから、そんなに大したことじゃないだろう…。でも、不安だ。
「麻衣ね、子どもがいるのよ。Ｋ市にいるおとうさん、おかあさんに、その子どものお世話を頼んでいて、それで、この町で、働いているの」
「……」
　目の前がクラクラする。
　僕は、ゆっくりと、首を回している。
（そんなこと、嘘だ！）

「やっと、離婚が成立したみたいよ」
「……」
　僕は、急に吐き気を催してしまっていた。

「すみません、ちょっと、席、はずさせてください」
　僕は、席を立ち、トイレに向かった。
　洋式トイレの蓋を開け、便器の中に顔を突っ込むようにして、僕は、思い切り、胃の中にあるものを吐き出していた。
　僕は、涙を流していた。
　僕は、顔を洗った。
　しかし、涙があふれて、また、顔を洗い直さなくてはならなかった。

『早く席に戻らなくては、麻里さんに馬鹿にされる』
　そんなことを僕は考え、顔を洗っては拭いていた。
　でも、拭き終わっても、すぐ、また、涙が出てしまう。で、また、顔を洗って…。


　僕は、２８歳になる。
　１６，１７歳の高校生ではなかった。
　それなのに、僕は、恥ずかしいことだが、ショックを受けたのか、仕事に行く元気もなくし、仕事を休んで、家で、ベッドにもぐり込んでいた。

　何とか、彼女の子どもも、僕たちの手で育てられないものか、考えていた。
　しかし、小学生くらいまでならいいだろうが、中学、高校になって、果たして僕は、彼のことを理解し、包容してやれるだろうか。いくら考えても、僕には無理なように思えた。

　夕方だった。
　ケータイが鳴っていた。
　麻衣からだった。

「ごめんなさい。隠すつもりはなかったの」
　麻衣は、涙声だった。
　僕も、麻衣がかわいそうでならなかった。
　でも、僕には、自分の子どもではない子どもを育てる自信がなかった。

「いや、僕もあやまらなくては。僕は、気が小さくて、結局、君をちゃんとした方向へ導いてあげることができなかった。本当に、ごめんなさい」

　僕は、離婚暦があり、前のご主人との間に子どもがいる人との結婚について、両親を説得する自信がなかった。

「ごめんなさい。結局、経済的にも精神的にも、あなたを引っ張っていくだけの力がなくて。ただ、好きなだけで。ごめんなさい。こんな僕が、あなたのことを好きになってしまって…」
　僕は、手の中からケータイを落さないよう、しっかりケータイをにぎりしめていた。が、そのケータイは、きっと、涙で濡れていたことだろう。

　その後、僕はケータイの電源を切っていたせいか、職場の固定電話に、彼女から電話がかかって来た。
『お店の方に、好きなカフェオレを飲みに来ませんか？』
　と。
　でも、僕ときたら、まるで、お客さんみたいに、そっけない、ことわりの返答をしていた。
『少し、気持ちが落ち着きましたら、また、お邪魔したいと思いますが。今のところは、おことわりをします』
　と。

　僕は、やはり、つまらない男だった。
　何か頼るものがないと、寂しくてたまらなくなる。
　それで、また、彼女たちの勤めている店の系列とはちがう、元町通りの、ど真ん中にあるメイド喫茶に、通いはじめていた。

　そして、僕は、ｉ−Ｐａｄを見るだけでなく、ｉ−Ｐａｄの落書き帳に、いっぱい、いっぱい、「敵前逃亡者」、「弱虫」、「卑怯者」、「意気地なし」、「恋人失格」、「人間失格」などと書きなぐっていた。
　自虐的だが、何となく、そんな落書きをし、その落書きを見ることで、やっとのこと、自分を落ち着かせることができた。
　そして、そのようなことが気分転換になるのか、仕事を放り出すことからだけは救われ、大した中味の仕事をするわけではないが、遅刻も早退も休みもせず、ともかく、毎日毎日、８時間だけは、我慢して、職場の机にかじりついていた…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（おわり）