３　彼女のお店に１日に３度も

　僕は、多くを望んではいなかった…。
　だって、彼女は顔がかわいいし、スタイルもいい。だから、ステディな、ちゃんとした彼氏がいるにちがいなかったから。

　が、そうは思いつつも、僕は、ひとすじの光明みたいなものを、期待していた。
　なぜなら、彼女にチョコレートを渡して以来、彼女は、僕に、話しかけてくれるようにはなったから。

　僕は、そのお店の良いお客さんになろうと決心した。そして、前にも増して、頻繁に、そのメイド喫茶に通うようになった。
　毎日のように通い、彼女にきらわれるのではないかと、内心は恐れていたが、彼女は、そんなに面倒くさそうな対応でもなかった。やはり、僕も、お客さんのひとりにはちがいなかったから。

　ある、木曜日のことだった。
　夕方の６時過ぎ、その店の、美幹（ミキ）ちゃんこと、彼女に会いに行った。が、彼女はいなかった。
　常連客である僕の頭の中のコンピューターでは、木曜日は、午後３時から１０時まで、ミキちゃんは勤務のはずだった…。

　体調がわるいのかもしれない。

　僕は、彼女がいなかったので、６時半頃、ひとり寂しく、メイド喫茶を後にした。
　だが、どうしたことか、うちに帰れそうになかった。ミキちゃんのことが心配で。いや、ミキちゃんの顔が見たくて。ちょっとでも顔を見れば、安心できるのに、それができなくて、何だか心残りがするというか、し残したことがあるような気がするのだ…。

　僕は、中華料理店に入っていた。
　塩ラーメンを注文していた。
　が、食欲がない。半分も残して、その店を出た。

　ブック・ストアに寄る。
　が、特に、読みたい本もなかった。

　僕は、歩いていた。足は、再びメイド喫茶に向かっていた…。
　と、僕は、その店の店内の様子が、ガラス窓越しに見えるのに気がついた。足早に店に近寄る。彼女の姿を捜す。と、彼女がいた。

（なんだ、ミキちゃん、遅刻してやって来たのか。でも、病気じゃなくて、よかった、よかった…）

　僕は、今日、一度、この店をすでに訪れている。一日に２度もメイド喫茶に入る人間なんていないだろう。むろん、外回りの営業の人間で、ごく普通の茶店に一日に２度入る人間はいるかもしれないが、それだって、同じ茶店には行かないだろう。お店は変えるはずだ。

　僕は、恥ずかしいまねはできないと、踝を返した。が、涙が出る。どうしても、彼女に会いたくて。これじゃ、家に帰っても、とてもじゃないが、ゆっくりと眠るなんて、できそうにもない。

　お店の、他の女の子たちに、何を言われるか、知れたもんじゃない…。

　が、僕は、会いたくて、会いたくて、彼女に。
　彼女の顔をひと目見たくて。

　確か、１時間前に、その店にいたはずなのに、僕ときたら、再び、その店のドアを押していたのだった。

　僕は、顔を隠すようにして、椅子に座る。
　が、なんと、彼女は、僕に気がついたらしい。彼女が、僕のボックス席に、やって来たのだった…。

「ご主人さま、お帰りなさいませ。お風呂になさいますか、それとも、先に、何か、お飲み物をお持ちいたしましょうか」
「はい、では、飲み物にします。ブレンドコーヒー、いや、ブルマンを、ひとつお願いします」
「はい、かしこまりました、ご主人さま」
「あのぉ…」
「はぁ？」
「６時頃、こちらに来たんですが、僕。あなた、いらっしゃらなくて…」
「ああ、ご主人様、その時間は、お使いに行っていましたの」
「ああ、そうなんですか。それなら、良かった」

「えっ、どうして？。何か？」
「ええ、そのぉ、何か、来る途中、交通事故にでも遭われたのか、それとも、ご病気なのかと、少し、気になったものですから…」
「まぁ…」
「すみません。要らぬ心配をして」
「ううん、そんなことないわ。そんなにわたしのこと、心配してくれて、うれしいわ」
　彼女は、にっこり笑って、カウンターの方へ、戻って行った。
　とても素敵な笑顔だった。
　僕は、ネオンがまたたく街の夜景を窓越しに眺めながら、さっきの彼女の笑顔を何度も、何度も、頭の中に思い描いていた。

　僕は、彼女に見送られて、その店を出た。
　が、その店を出るとき、見送りに出てくれた彼女が、そっと、僕に言ってくれたのだ…。
「また、来てね」

　僕は、その言葉に、マニュアルどおりではない、彼女自身の気持ちを感じていた。
　通りに出たとき、僕は浮き足立っていた。
　『また、来てね』という彼女の言葉を、何度も何度も心の中で反芻していた…。

　僕は、うちに電話を入れた。
　母が出た。
「遅くなる」と告げていた。
『明日も勤務があるから、あまり遅くならないでね』
　母の言葉に、ちょっと胸が痛む。

　にもかかわらず、僕は、まっすぐうちには帰らなかった。
　と、職場のみんなと、時々行くおでん屋の看板が目に入った。
　僕は、その店の、のれんをくぐっていた。
　なぜか、胸が騒ぎ、うちに帰れないのだ。

　僕は、カウンターに座る。
　そして、焼酎のお湯割りと、おでんを注文した。
　たまごを食べる。そして、コップに入った、あったかい湯割りをあおった。

「おにいちゃん、今日は、ひとりかい？」
　見ると、この店のマスターだった。
「はい」
「おにいちゃん、恋でもしているの？」
「えっ？」
「なに、ね、こんな商売しているとね、わかるんだよ。この人は、今日は、仕事で失敗して上司に叱られたとか、この人は、今日、失恋しちゃったとか」
「へぇ、そうなんですか？」
「で、どうなの？」
「さぁ、どうなんでしょうか。もっとも、たとえ、僕が、恋しているといっても、それは片想いじゃないですか」
「ふーん、そうかい、そうかい。でも、その気持ち、大事にしなさいよ。そういう風に思ってくれる、ということは、女の人も、うれしいもんだからね」
「……」
　僕は、考え込んでいた。
（僕みたいな甲斐性なしの男が好きになっても、彼女、うれしいんだろうか？）

　僕は、どうしたら彼女は幸せになれるだろうか、と考えていた。
　が、そのことを考えるたびに、僕には、その回答がわからず、反って、僕など、彼女の幸せの邪魔になるような気がして、僕は、どんどん、湯割りのおかわりをしていた。

　僕は、おでん屋を出ていた。
　時刻は、１０時前だった。
（１０時には、彼女は、店が引けるはずだ…）
　僕は、タクシーに乗り、彼女のメイド喫茶に向かっていた。

　僕は、おそるおそる、外から店の中を覗く。
　いた、彼女が。
　それに、なんと、ひとりのお客さんと仲良さそうに話しているではないか。
　カァーッと頭に血がのぼる。
　アルコールが入ったせいかもしれない…。
　神経が過敏になっている。
　それに、アルコールのせいで、感情が制御できないでいるような気がした。
　
　僕は、我慢をして、うつむき加減に、通りに立っていた。
　また、顔を上げる。
　窓越しに、店内で歩き回っている彼女の姿が見える。
　僕は、矢もたてもたまらず、店の中に飛び込んでいた。
　
　ちょっと遠くに、彼女の不思議そうな顔が見える。
　僕は、恥ずかしくて、視線を逸らす。
　が、内心は、彼女がこっちに気づいて欲しいと願っている。
　
　待っていた。しかし、彼女は、僕のところへ、注文を取りには来てくれなかった。
　僕のところへは、ほかのメイドの人が来たのだ。
　僕は、酔いを醒まそうと、冷たい、マンゴー入りのジュースをたのんでいた…。
　
　１０時はとっくに過ぎている。
　が、彼女は仕事が終わりそうにない。
　店には、たくさんのお客さんがいた。
　僕には、そのお客さんが、すべて、彼女の熱烈なファンのような気がした…。

　と、僕は、彼女が、とてもハンサムなお客さんと話をしているのを目にした。僕は、その時、なぜか、勢いよく、席を立ち上がっていた。そして、なんと、その瞬間、僕は、思い切り、胃の中のものを吐いてしまっていたのだ。間に合わなかった、口の中に手を突っ込むのが。何という恥さらし。僕は、ショックで、気を失ってしまっていた…。

「だいじょうぶ？」
　僕は、目を開けた。僕の目の上に、彼女の顔があった。
「ここは？」
「わたしたちの休憩するお部屋なの。店長にお願いして、ここを貸してもらったのよ」
「すみません」
　僕は、すっかり、状況を飲み込んでいた…。
「お店のテーブルとか、絨毯とか、大変、汚してしまって…」
「いいの、いいの」
「でも…」
「店長が、いい人だから、いいの」
「そうですか？」
　僕は、どう言って店長におわびをしたらいいのか、考え込んでしまう。それに、飛び散った汚物の始末で、彼女には大変な迷惑をかけてしまったと思うと、身が細るような気持ちだった。

「わたし、もう少しで、お店が終わるの。もう少し待っていて。そうしたら、一緒に帰りましょ。あなたのおうちの近くまで、送って行ってあげるわ」
「……」
　僕は、『いいです、いいです、そんなことまでしていただかなくても…』と言いたかった。でも、言葉が出なかったのだ、彼女の前で、あまりにも緊張していて。

（ああ、これで、もう、このお店には、来れなくなってしまった…）　
　僕は、天井を見ながら、そう思っていた。

　僕は、彼女とタクシーに乗っていた。
　僕は、後部座席で、ひどく緊張していた。
　左横に座っている彼女の方は決して見ないようにして、右の窓から、通りを眺めていた。
（ああ、なんてことをしたんだろう…）
　僕は、まだ、反省しきりだった。
　胃の中のものを吐いて、肉体的には、多少、気分は持ち直していた。
　しかし、お店の中を汚物でよごし、彼女に手数をかけてしまったということで、精神的に、ひどく落ち込んでいたのだった。
（どうしたら、つぐないができるのだろう？）
　そんなことを考え続けていた…。

「どうしたの？」
「大丈夫です。もう、吐き気はないですから…」
「……」
　彼女の手が、僕の太腿のところに置かれるのを感じていた。
　彼女は、彼女なりに、心配してくれているらしい。

　僕は、申し訳ないという気持ちで、頭の中はいっぱいになり、からだは、まるで、パソコンがフリーズしたみたいに固まってしまっていた。

　それに、彼女がすぐそばにいるという意識だけでも大変な気苦労なのに、彼女の手のぬくもり、彼女の匂いが、僕の心を苦しめ、胸のあたりが、何か、鉄板ででも挟まれたかのように痛かった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）