| ６ 先生の涙に優柔不断となる 龍次は苦しんでいた。 先生のことが好きなのだが、先生に会いにいけないのだ。 先生の子どもである、慶太君のことがどうしても頭に浮かぶ。 慶太君を不幸にしてはならない。そして、慶太君を不幸にするということは、先生を悲しませることに通じる。 先生と慶太君を幸せにする、いや、ふたりの将来の生活について責任をもって対処する、そういう覚悟がなければ、いくら好きだといっても、会ってはならない…。 本当に愛しているなら、会いに行けばいい。 しかし、中途半端な気持ちなら、会いに行かない方がいい。 反って、先生を不幸な目に合わせることになる。 頭の中ではわかっていた、 （男と女の仲はセックスだけではない。男女が共に苦労して、経済的にも精神的にも安定した家庭を築いていくことこそが、一番大切なことだ…） と。 そういうしっかりとした気持ちがなければ、先生に会ってはならない。 しかし、どうしても、先生のことを忘れることができなかった。 先生のことを忘れるためには、グループホームでの仕事に、あえて熱中していくしかなかった。 先生の勤めておられる保育園に行き、園舎・園庭の、修理や修繕をしてあげたい、でも、その勇気がなかった。先生に会えば、きっと先生に何か言葉をかけなくてはいけなくなるだろう。 『おはようございます』、『こんにちは』。 そういう言葉だけで済ませられるものなら…。 だが、そんな言葉だけで済ませられるはずもない。 かといって、 『あの夜のことは忘れてください。あれは、僕のいっときの心の迷いであって。僕には、先生を、そして慶太君を幸せにしてあげられる力はありませんから…』 というようなことを、正面切って、先生に告げられるものでもない。 本当なら、そう言い切って、自分の未練を断ち切り、先生にも今の段階で未練を断ち切ってもらうことの方が、お互いのために、いいことかもしれない…。 龍次は、先生に会いに行くことを自制している。 しかし、先生と一度は寝たことがあるのだ。 ペニスの先が、龍次の精神とは別個に、勝手に疼く。そいつが、先生のヴァギナを求めているのだ。 先生を汚すことになる。 しかし、龍次は、夜、寝るとき、先生のことを考えながら、マスターベーション（自慰行為）をせざるを得なかった…。 （いつか、時間が解決してくれるさ） 龍次は、そう思いながら、日々を過ごしていた。 その日は、夕方、６時半に、勤め先のグループホームの玄関先を出た。 と、玄関から出た、通りの歩道に、ひとりの人が立っていた。よく見ると、女の人で。どこかで見たような気がする。が、ひどく老けている女の人だ、やはり見間違えか…。 『あっ、亜里沙先生じゃないか！』 龍次は、内心、びっくりしている。 （どうしたんだろう。髪はバサバサ、櫛も通していないみたいだ。それに、化粧もあまりしていないみたい…。いつも、きれいにしておられるのに…） 龍次は、おそるおそる、その女の人に近寄り、声をかけていた。 「どうかされたんですか？」 「お時間、ありますか？」 先生は、青白い顔をして、そう言われている。 龍次は、気の毒になり、思わず答える。 「ええ、仕事は終りましたから。今から、食事をして、アパートに帰ろうと思っていたところです」 「……」 先生は、目を伏せ、何もおっしゃらない。 龍次は、勇気を奮い起こして、しゃべる。 「中華料理の店に行くつもりでした。もし、よかったら、そちらに行って、何か、お話でもしませんか？」 龍次は誘っている、先生を。胸の内はふるえている。 （もう会わないと、誓ったはずではないのか） と、龍次は、自分の胸に問う。 が、しかたがない、と龍次は思う。 会ってはならない人だが、こうして悩み深い顔をして会いに来られたのだ。無碍に追い返すのは、いくらなんでもひどすぎるのでは、と思っている。 先生は、食事の誘いを、特には拒否をされていないようだ。 で、龍次は続けた。 「では、行きましょうか。何か、あたたかいものでも、ごちそうしますから…」 龍次は、中華料理店に入った。 先生は、注文をすべて龍次に任せてくれた。 龍次は、注文した。 酢豚、春巻き、えびちり、八宝菜。それに、大・中・小のうち、中の白いご飯をふたつ。 あと、先生のために、ビールを。自分のためにはノンアルコールビールを頼んだ。 龍次は、先生に、瓶でやってきたビールを、グラスに注いであげた。 「どうして、会いに来てくださらないのです？」 先生の、その声の中には、責める口調が感じられた。 龍次は、自分のグラスに、ノンアルコールビールを注ぐのを止めた。 そして、先生のために注文した瓶ビールを取り上げ、自分のグラスにもビールを注いで、飲み干した。 やはり、はっきりと、今自分の考えていることを、先生に告げるべきだと思ったからだった。 「すみません。僕は優柔不断でした。僕には先生と付き合うつもりがなかったのです。はっきり、そう言えばかったのですが。照れくさい気持ちもあって、なかなか、そう言い切れなかったんです。そうこうしているうちに、保育園にも行こうという気持ちを失くしてしまって。本当に、申し訳ありませんでした」 龍次は、本当に頭を下げた。 実際、あの夜、先生を抱いてしまったことを悔いていた。 （あの時、もっと、俺は、理性をもって、対処すべきだった…） 「あやまられても。せめて、保育園には顔を出していただかなくては。園長先生をはじめ、みなさん、龍次さんのこと、心配なさっているわ」 「すみません。顔を出すようにしますから、今後は…」 「わたし、何か、龍次さんに、わるいこと、しましたかしら？」 「いいえ、そんなことはありません」 「では、なぜ、会いに来てくださらないの？」 「それは…」 「あなたは、あの時、わたしのこと、愛していると、おっしゃったのに…」 「えっ？」 龍次は驚く。 （そうだ。確かに、言ったかもしれない。実際、先生のからだの中に入られたのだ。あのときは、すごく気持ちが良かった。だから、その時は、きっと、『先生のこと、大好きです』とか、『愛しています』とか、口走ってしまったのだろう…） 龍次は反省している、 （大人気ないことをしてしまった…） と。 セックスは、きっと、精神を高揚させてしまうのだろう、お酒を飲んだみたいに。 龍次は、言い訳を考えていた。 「確かに、あの時は。ただ、その後、冷めた頭の中で、じっくりと考えてみたんです。やはり、付き合いをするなり、結婚のことを考える、ということになると、僕自身の収入のことがネックになると…」 「そんなこと。もし、龍次さんのお給料でやれないとしたら、わたしが働けばいいことですわ」 「でも、そんなこと、あなたにさせられませんよ」 「龍次さんって、女の人を、家庭の中に閉じ込めておきたい方なんですか？」 「いや、そんなことはないですけど…」 「だったら、かまわないじゃないですか」 龍次は、先生に押しまくられているような気がした。 先生は、料理にほとんど手をつけておられない。 むろん、龍次もそうだった。 龍次は、お店の人に、瓶ビールのおかわりを、お願いしていた。 龍次は、結婚を前提に付き合うことなど、絶対にできないことを、先生に、何とか、伝えたかった。 「僕には、経済力がありません。それに、年齢も４７。働けるとしても、あと１３年くらいでしょう。やはり、慶太君の将来のことを考えると、僕は、あなたにはふさわしくないと思います」 「わたし、あなたに結婚してくれなんて、言っていませんよ。それに、今ここで、慶太の話まで持ち出さなくてもいいじゃありませんか！」 そうおっしゃる先生の目は、龍次には釣り上がっているように見えた。 龍次は、咽喉が渇いた。 先生の怒りを目の前にして、自分も興奮して来たらしい。冷静になろうと、ビールをひと口、飲む。 「すみません。ただ、あなたに何と言われようと、僕は、あなたとは真面目な交際を望んでいました。ちゃらちゃらとした、男女交際は、僕の性格では、無理なんです。本当に、ごめんなさい」 龍次はあやまった。 実際、相手と肉体関係を結んでしまってから、こんなことを言うのは、卑怯なのだ。 「わかりました。わたしは、実は、このあいだ、出会い系サイトに登録しました。交際を求めている男性がおられます。その方とお付き合いをしてみます。それで、龍次さんのこと、あきらめられると思いますわ」 「そんな…」 龍次は、腹が立った。 （そんな、素性もよくわからない男と、付き合うなんて！） 自分が、出会い系サイトに登録している男性と同じように捉えられているということが癪に障りもするのだ。 （俺は、先生に、そんな、いいかげんな男だと思われていたのか！） 龍次は言った。 「僕は、そういう仮想空間で、付き合う相手を探すなんてこと、しなくても、先生は、十分、現実の世界で、いい人が見つけられる人ですよ」 「そんなことはありません」 先生は、僕の見込みをあくまで否定する。 「いいえ、そんなことがあるんです」 龍次は龍次で、先生の価値を見下したくはない。 「わたしは、寂しさを紛らわせるだけでいいんです。付き合う相手に、何も求めてはいません」 「そんな情けないことを言わないでください。あなたには慶太君がいるじゃありませんか！」 「慶太、慶太って、言わないでください。わたしは確かに母親です。でも、まだ、ひとりの女として生きて行きたいんです。相手の男の人にとって、わたしがセフレの一人であっても構わないんです。女のとしての喜びを与えてくれるのなら…」 龍次は、情けなかった。もっと、先生は、きちんとした、しっかりとした考えを持った立派な女性だと思っていたのだから。 が、先生は、突如、顔面を伏せられた。 その伏せられる、一瞬の手前、先生の目には、涙がにじんでいたように、龍次には思われた。 そして、目の前の先生のからだを見る。 ほっそりとして、いかにも頼りなげに見える。誰かが支えてあげないと、本当に、このまま、空気の中に消えてしまいそうなくらいだ。 龍次にしたら、本当は、先生に、 『いっときの慰めになるんだったら、出会い系サイトに登録されている男の人の誰かと会って、ラブホでもどこでも行ったらいいんだ！』 と、半ば、投げつけるような言葉を吐きたいのだ。でも、そんな言葉を投げつけたら、今の先生は泣き崩れるかもしれない…。 龍次は、捨て鉢な言葉を吐きそうな自分を、じっと抑え込んでいる。 が、先生のか細い肩口のあたりを見ていると、他方では、『この女を、素性もわからない、遊び半分の男に、抱かせていいのだろうか？』と思うようになった。 龍次は、考えている。 （俺は、先生と結婚できるような、立派な男じゃない。しかし、先生が好きだ。その先生が、ラブホに連れ込まれ、いいようにおもちゃにされるのは、たまらなくいやだ…） 現実の自分は無力だ。 しかし、そんな自分が、何でもない男に嫉妬している。 龍次は、今さらながら、自分の身勝手さ、甘さかげんに、あきれる思いがした。 （つづく） |
| あなたのひと言が作者の励みとなり、新たな作品が生まれます。ご感想宜しくお願いします。 |
| 2011.1.30掲載 |
| [最新・コラボ小説]／[完結小説（長編）］／［完結小説（中編）］／[完結小説（短編）]／［休載？小説］／［体験告白］／［ＭＡＩＮ］ |