| ７ 優柔不断と堂々巡り 龍次は、自分の優柔不断さに腹が立っていた。 恋愛をしたい気持ち、そして結婚する気持ちがないのなら、その女とは付き合うべきではないのだ。しかし、龍次には、そうとばかりは割り切れない気持ちがある。 目の前で、女が泣いている。 女の方から、化粧の匂いが伝わってくる。ひょっとしたら、涙で顔に塗っているファンデーションが溶け、その匂いがこちらまで漂って来ているのかもしれない、と龍次は思いながら、理性と劣情とのはざまで、迷っている 泣き止むまで待とう、と思う。 実際のところは、もうこのまま、女を放っておいて、席を立ち、自分はひとりになって、さっさと自分のアパートへ帰るべきなのだろう。 目の前にある、せっかくの中華料理が冷え切ってしまっている。 今はもう、その料理に手を出す気にもなれない。何しろ、龍次には食欲がなくなっているのだ。 龍次は、席を立ちたかった。 でも、立てない。 （せめて、先生をマンションの近くまで、お送りしなくては…） 龍次は、先生のマンションに行く道の途中に、コンビニエンス・ストアがあったのを思い出した。 （そこで、先生と慶太君に何かお菓子でも買ってあげよう。それがせめてもの、おわびのしるしだ） 「先生、ここを出ましょう。お送りします。先生のマンションまで」 龍次は、身を乗り出すようにして先生の方に顔を近づけ、小さな声で言った。お店の人に聞こえないように。 けれども、先生は無反応だった。 聞こえなかったかもしれない。 そこで、大胆だけれども、龍次は席を立ち、先生の横の椅子まで行って座り直し、先生の耳の近くで、「さぁ、帰りましょう。送っていきますから」と囁いた。 見ると、先生は首を横に振っている。 （これじゃ、まるで、子どもだ！） 龍次は、駄々っ子のような先生に、あきれ、かつ、怒っている。がしかし、ここは、いやしくも中華料理店だ。大きな声を出して怒るわけにもいかない。 龍次は途方に暮れる。 龍次が目を挙げると、この中華料理店の店長が、こちらを見て、ニヤニヤ笑っているではないか。 龍次はあわてた。そして、顔が赤くなるのがわかった。 （このままではヤバイ。この店の人に誤解をされるにちがいない。俺は何もこの女を口説こうとしているわけじゃないのに…） 龍次が、この横に座っている女に言いたいのは、『もっと、しっかりして欲しい』ということなのだ。 慶太君という子どもがいる。 保育士の資格を持ち、ちゃんと、保育所の常勤の正規職員として働いているのだ。もっとしっかりして欲しいのだ。出会い系サイトで知り合った、身分も素性もはっきりとはわからないような男の人と、ひと晩限りの、割り切りセックスなんて、して欲しくないのだ。 しかし、何となく、こんなことを話していると、こうしたレストランであれ、どこかの喫茶店であれ、店の人や、店のお客さんに気づかれるような気がした。 もはや、自分のアパートに来てもらうしかないのではないか、こんな話をしようと思えば…。 部屋に来てもらうなんて、危険すぎる。 確かにそうなのだ。 ふたりきりになる。 自分が、オオカミにならないなど、保証できるものではない。 しかし、よく「ハイリスク・ハイリターン」とかいうじゃないか、今は、危険が大きくとも、ともかく、ふたりできちんと話をし、先生には自分のことをあきらめてもらわなくてはならない。何しろ俺ときたら、年齢的にも、収入的にも、絶対に、先生とは釣り合わないのだから…。 龍次は、思い定めた。そして、最後の通牒でもあるかのように、先生に言った。 「僕のアパートに来ていただけませんか。そこで、僕の気持ちをはっきりと伝え、もし、あなたからも、お話があれば、うかがいますから」 と、龍次が驚いたことには、横の先生が、うなずかれ、カバンからハンカチを出され、それで目の辺りを拭かれると、背筋を伸ばし、スクッとばかりに、席を立たれたのだった。 支払いを済ませ、龍次は、店を出た。 しかし、先生は龍次の先を、ひとりで、どんどん歩いて行かれるのだ。 （僕のアパートの場所なんか、わかっていないくせに） 龍次は、そのうち、先生がどこへ行くのかわからなくなって、後ろを振り向くにちがいないと思っていた。 しかし、先生の歩いて行かれる方向は、間違ってはいなかった。確実に、先生の歩みは、龍次のアパートに向かっているのだ。 （えっ！。俺がいないとき、グループホームの職員の誰かに、聞いたんだろうか？） とうとう、龍次のアパートに着いた。 先生がはじめて、後ろを振り向いた。 龍次は、あわてて、アパートのカギを財布の中から取り出す。 「わかっていたのですか？」 龍次が先生に聞く。 「ええ、園長先生に聞いて。それに、この辺まで来たことが、ありますから…」 プルッとした、何でもないような顔をして、先生が答えている。 龍次は、絨毯の上に置いていた、新聞紙やエロ週刊誌を片付け、机の上に置き直した。 恥ずかしい、戸棚にはエロ本も並んでいるし。 でも、しかたがない。 ファッション・ヘルスやキャバクラなど、フーゾク店に行って遊ぶお金もないのだから。 絨毯の上に、座卓テーブルをセットした。 先生には、その戸棚が見えないよう、奥の、玄関ドアに向かう位置に座布団を置き、そこに座ってもらう。 龍次は、コーヒーメーカーで、コーヒーを沸かし、カップをテーブルの上に置いた。 「こんなところまで来てもらって、すみません。ああいうお店で話をしていても、話題によっては、つい、僕は、大きな声を出すかもしれないと思ったもので」 「気にしないでください。でも、そんな大きな声を出されなくても、わたし、わかりますわ。耳はわるくないんですもの」 「ああ、そうですね」 龍次は、座卓テーブルの前で正座をし、固くなっていた。 （ちゃんと、伝えなくては、自分の気持ちを。ずるずる長引かせると、反って、先生を不幸にしてしまう。先生を不幸にするなんて、絶対に、そういうことをしてはならない） 龍次は、素直になろうと努めていた。 「すみません。さっきの店では。ただ、僕としては、きっと焼き餅をやいたのだと思います。そういうことは、まず、謝っておかなくては…」 先生は、まっすぐに龍次の方を見ておられる。 「どうして、焼き餅なんか…」 龍次は、何故か、ムッと来る。 が、龍次はそんな感情を押さえながら言う。 「やはり、好きなんだろうと思います。好きだから、不特定の男性と付き合われるのが、いやだったのだと思います」 「わたし、そんな不特定の男性と付き合うなんて、言っていませんわ。出会い系のサイトといっても、真面目な交際ですわ。お茶とお食事とか、そういう出会いの積み重ねがあってはじめて、正式な交際に発展していくんだと思いますわ」 「では、やはり、そういうサイトに登録をされた、というのは、本当の話なんですね」 「ええ、そうですわ」 龍次は、目の前が、一瞬、真っ暗になった。 息を呑む。 目をつむる。 何とか、冷静になろうと努めている。 が、理性で腹立たしい感情を自制する前に、すごく感情的な言葉が、龍次の口から、すでに発せられていた。 「そんなサイトに登録しなくても、あなたには、十分ふさわしい人が見つかります。どうか、そういう出会い系サイトで、素性のよくわからないような男性と交際するのは、やめてください」 舌がもつれそうだ、龍次にとっては。 「真面目な交際を望んでおられる方もおられますわ」 先生は、キッとした、鋭い視線を投げかけられる。 「そんなことはない！。あんなサイトに登録する男なんて、みんな不真面目な人間にちがいない。あなたは騙されているんです」 龍次は、おのれの目が釣りあがっているのがわかった。 が、なぜか、先生の目が濡れている。 そして、先生のくちびるが動いている。 「だって、龍次さんが、あれから来てくれないんですもの…」 龍次は、先生の目に、大粒の涙を見た。龍次は突然、おのれの胸がふるえているのがわかった。 「わたし、龍次さんに会いたくて、このアパートの回りを、うろうろしたこともあるんです…」 （そうだったのか…） 龍次は、胸をつかれている。そして、おのれの優柔不断さが、女を苦しませていることを改めて知った。 「ごめんなさい」 龍次は頭を下げ、あやまった。 （こんなことになるなんて…） 龍次は、自分の好きだという気持ちを、先生にぶつけてしまったことを悔いた。片想いのまま、自分の想いを閉っておけば、先生と肉体的な関係を持つにも至らなかったであろうに…。 が、今なら、まだ、間に合うのではあるまいか？。 先生にあきらめてもらうのだ。お互いに顔を合わせないようにすれば、１年か２年で、互いに、肉体的な関係を持ったことも、忘れられるのではあるまいか？。 龍次は、なぜか、涙が目にあふれそうになって、しっかりと目を閉じていた。 が、何かを言わなくては、と、思っていた。 「あなたを不幸にするとは思っていなかったんです。それだけはわかってください。ただ、好きだという気持ちがあって、そして、僕も男で性欲もあって、ついに、貴方を抱いてしまいました。でも、あとで、本当に、後悔をしてしまったのです。どうして、劣情をがまんしなかったのか、と。だって、僕は、本当には、あなたを愛していなかったし、また、慶太君のことを、成人になるまで、しっかりと扶養していこうという覚悟もなかったんです」 龍次は、そんな言い訳を並べながら、とうとう、閉じた目から涙をこぼしてしまっていた。 実際、情けなかった。 欲望をコントロールできなかった、という反省とともに、経済力もない、包容力もない自分が、あまりにも情けなかったのだった。 （俺は、もう一生、女を好きになってはならない。いや、俺には、女を好きになる資格もないのだ！） 龍次は、自分がみじめだった。 この場で、本当に、煙のように消えてしまいたかった…。 「わたし、帰ります」 「……」 龍次は顔を上げ、目を開けていた。 先生は立ち上がっていた。 せめて、送ってあげなくては。 龍次も立ち上がった。 先生がそばを通り抜けようとされる。と、その時、先生が龍次の方に、よろっと、よろめいて来られ、龍次はあわてて手を出し、先生のからだを支えてあげる。 「大丈夫ですか？」 「……」 先生の目が激しく、いや、妖しく光っている。 「やはり、わたしのこと、愛していらっしゃらないのね」 龍次には言葉もない。 「わたし、出会い系サイトで、いい人を見つけますわ」 「……」 龍次は、泣いていた。 そうなのだ。先生を止めるすべもないのだ。男として、また、一個の人間として、失格なのだ、自分は。 「どうなさったの？」 先生の顔から妖しげなものが消え、本当に、龍次の身を案じているような表情に変わっていた。 「何でもありません」 龍次は、手で涙をぬぐった。 が、後から後から涙が出て来て、止まらなかった。 情けないのだ。 ネット上の、素性もわからないような、いや、嘘で塗りたくったような男に、負けるなんて…。 「大丈夫ですから」 龍次は、先生に心配をかけたくなくて、笑顔を作ろうとしている。 そんな龍次が、かわいそうに思えたのか、それとも愛おしく思えたのか、先生が龍次の頭を自らの胸の中へと、抱きかかえられる…。龍次は、思わず、絨毯の上に膝をついて、先生の胸に取りすがっていた。 「ごめんなさい、ごめんなさい」 龍次は、先生の胸で泣いていた。 「こんなことになるのなら、僕は、先生に自分の気持ちを告白すべきではなかった…。ましてや、先生のからだを求めるべきではなかった。ごめんなさい、ごめんなさい。あのとき、僕は、我慢できなくて、とうとう、あなたを抱いてしまった…」 先生の胸は熱かった。 龍次の熱い涙は止まらなかった。 龍次は、このまま、舌を噛み切って、死んでしまいたかった。 （『俺は、先生を不幸にするために、好きになったんじゃないのに！』） （つづく） |
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| 2011.2.5掲載 |
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