２　コーヒーだけなら

　眞司は、外国語学部の学生と一緒に、田村先生の英語の授業を受けていた。
　眞司は、いつも、窓側の、一番後ろの席を取っていた。
　しかし、不都合があって、移動した。
　今度は、廊下側の列で、一番前の席に陣取ることにしたのだった。

　田村先生は、よく、教壇を立って前に進まれ、学生たちが座っている、３列目ぐらいのところに立ちながら、授業を進められる。
　そのため、眞司が座っている最前列の席は、田村先生からは死角になる。

　ミニスカートを穿いている、太腿がセクシーな彼女も、眞司の席の隣にはいない。
　それで、眞司には、けっこう、自分が授業に集中できているように思えた。

　英語の授業が終わった。
　ホッとしたせいか、眞司は座りながら、両腕を上に伸ばし、背伸びをして、生あくびをした。

「君は、英米学科の学生じゃないんだろう？」
　声を掛けられ、眞司は、左隣りを見た。
　男の子が、こちらを見ている。

（なんで、こいつは、オレのことを知っているんだろう？）
　眞司は、不思議そうな顔を、その子に向けていた。

　と、その隣の子が言った。
「僕は、経済学部の桐田というんだ。よろしく」

　眞司も答えざるを得ない。
「僕は、法学部…」
　そう、隣の子に答えながら、（この授業には、オレみたいに、外国語学部以外の学生も、居ることは居るんだな）と思って、眞司は、ホッとした。

「来週の金曜日にさ、この英語クラスの有志で飲み会をやるんだ。君も出ないか？」
　隣の子が言う。
「しかし、僕は…」
　眞司は、口ごもっている。
（飲み会には、外国語学部の学生が多いだろうし、話が合わないだろう）と眞司は思っていたのだった。

　隣の子は、まるで、眞司の懸念を察したかのように、言った。
「英米学科の学生と仲良くしておくと、いいこともあるんだよ」

　眞司は小首を傾げている。

　隣の子、いや、桐田という男の子は、続けた。
「彼らは、先輩たちから、田村先生のテストの出題傾向を聞いていてさ、ホント、試験のヤマが当たるんだって…」

　眞司は、（そんなもんか）と思っている。

「じゃ、いいよね」
　桐田が言ってきた。

「待ってよ、待てよ」
　と眞司が言う。

「君と僕だけなんだ、この授業の外様は。だから、仲良くしようよ」
　と、桐田が言う。

（単位は、欲しいな）
　眞司は、そう思い、桐田の誘いに乗ることにした。


　眞司は、田村先生の授業を受けている連中と、居酒屋に居た。
　眞司は、仲間の桐田という男の子の隣りに座った。
　眞司が聞くと、桐田は野球が好きで、実際に、大学では、ソフトボールの同好会に入っているという。
　眞司も野球が好きだった。
（意外に、こいつとは、友達になれそうかもな）と、眞司は思う。

　真衣は、会場を見渡す。
（あっ、いた、居た…）
　彼が居た。
　こちらに背を向けて座っている。
　女の子みたいな白い、ほっそりとしたうなじに、小さい頭が乗っかっていた。
（後ろ姿も、よく似ているわ）
　真衣は、そう思いながら、彼のもとに近づいていく。
　が、躊躇する心が働く。
（あいつ、わたしのことがきらいで、席を替わって行ったのかも…）

　しかし、真衣は、今一度、勇気を振り絞った。
（もっとそばに行ったら、彼の匂いを嗅ぐことができるんだから、がんばらなくっちゃ…）

　前に進む。そして、真衣は声を発する。
「ここ、空いていますか？」

　眞司は、誰かの声を聞いた。
　それで、自分の左隣りの席を見た。確かに、空いている。ネクラな自分のそばになんか、誰も来たがらないさ、と思う。が、座りたいという人があれば、あえて拒む必要はない。

「いいですよ。ここ、空いてますから…」
　眞司は、そう言いながら、見上げると、見覚えのある女の子の顔が、宙に浮きながら、すぐそばにあった。

（あっ、あいつだ…）
　眞司は、うつむく。まずいことになったな、と思う。
　がしかし、空いていると言ってしまったのだ、もう遅い。居直るしかない。眞司は、無視することにした。それで、右隣にいる桐田とばかり、野球の話をすることにした。

　しかし、眞司は、左側も気になる。
　彼女のもとには、しょっちゅう（＝絶えず）、誰かが話に来るのだ。むろん、男の子が多い。
　『このあと、ボーリングに行かない？』とか、『カラオケに行かない？』とか、誘いの言葉をかけられている。
　眞司は、何だか、焼き餅を焼いている。
　もっとも、（ああ、こんなにモテる彼女だったら、付き合うのが大変だ）と思い直し、彼女のことは、考えないようにしていた。


　真衣は、心地良かった。彼がそばにいるから。
　彼がそばにいるから、安心して、どんな男の子とでも、話ができる。
　昔の彼氏も、すごく鷹揚なところがあって…。
　わたしが、クラスの、他の男の子たちと話すのを、彼氏は、ニコニコしながら見ていた。わたしには兄弟はなかったけれど、まるで、兄貴みたいに優しい目だな、と、そのとき、思っていたような気がする。


　眞司は、隣の女の子を無視し続けていた。
　と、隣りの桐田が席を立った。お手洗いなのかもしれない。
　すると、左隣りから、女の子の声がした。
「席を替わったの？」

　眞司はドキッとした。
　たぶん、あの、ミニスカートを穿いた、外国語学部の女の子だ。
　眞司は、横は向かずに、「オレ、出来がわるいから、せめて、前の席に出て、授業に集中しようと思って…」
　何か、彼女から言われるかなと眞司は思ったが、彼女からは何の返事もなかった。

　真衣は、心がはずんだ。
　が、それを顔には出さないようにした。
　彼が、恥ずかしそうに、頬を赤く染めたのを、真衣は見逃さなかった。

（脈があるわ。わたしのこと、きらって、席を換えたわけじゃなさそう…）
　真衣は、胸の鼓動が、急に速くなったのを感じた。


　ようやく、懇親会が終わった。
　眞司は左を見た。彼女は居なかった。
（誰かに誘われて、どこかに行ったんだろう）と眞司は思う。ホッとしたような、でも、何だか、さみしいような気がした。

　眞司は、居酒屋の前で、友達の桐田と別れた。
　アルコールを飲み過ぎたのか、咽喉が渇く。
　コンビニで、ミネラルウォーターでも買って、マンションに帰ろうと思う。

　真衣は、外で、彼を待っていた。
　彼の姿が見えた。
　胸がドキドキする。
　でも、彼と、ちょっとでも、話がしたかった。
（とにかく、足を前に踏み出そう）
　真衣は、そう思って、くちびるを噛み締めた。

　彼の背中がそこにあった。
　なで肩だ。
　でも、その肩先に、何か、なつかしさを感じる。
（彼氏がいる）と、真衣は思った。
　彼氏なら、何を言っても大丈夫のような気がした。

　真衣は、目の前の彼の背中に、言葉を投げかけた。
「ねぇ、近くまで、送ってくれない？」

　眞司は、女の子の声を聞いた。が、それは聞き覚えのある声だった。
　急いで振り向く。
　やはり、彼女だった。
　眞司は、目をシロクロさせている。
　からだが金縛りにあったようだ。

「どうかした？」
　女の子が尋ねる。
「いや、何でもないよ」
　眞司は、頬が引き攣るのを感じていた。

　彼女が真っ直ぐに自分を見ている。
　眞司は、何か言わないといけないと思った。
「オレは、君の住んでいるところ、知らないから…」

「いいの、いいの。わたしの後ろから、護衛官みたいに、付いて来てくれたらいいから…」
「しかし…」
「うるさいのが、つきまとっているの。だから、助けると思って…」
　眞司には、彼女が本気でそう頼んでいそうに思えて、「ああ、それなら」と答えてしまっていた。
　眞司は、緊張していた。
　なかなかスムーズに歩けない。

「ここのマンションなの」
　真衣が、マンションの２階のあたりを指差しながら言った。
「ふーん、けっこう、新しそうだね」
　眞司は、これで、やっと解放されるかと、肩の荷が下りたかのように、穏やかな表情になって、彼女のマンションをしげしげと見つめている。
（ふーん、こいつは、こんなところに住んでいるのか…）

「寄って行く？」
「まさか…」
　眞司は、胸がドキッとなった。

「いいじゃない。コーヒーだけしか出さないから」
　真衣が、口を尖らせながら言っている。

（コーヒーだけ…？）
　眞司は、ちょっと心が動く。
（しかし、なぁ、お互いの共通の話題、って、ないよな）
　眞司の顔がちょっと曇る。

「それとも、まだ、飲む？。実は、父親が置いていった、ウィスキーがあるんだよ」
　真衣が、迷っている眞司を、それとなく誘うように、言う。

「いや」
　眞司は、身を、いや、気持ちを、後ろに引いていた…。
（実際、これ以上飲んだら、オレ、何をしでかすか、わからない…）

「オレ、やっぱり、ここで帰るよ」
　眞司は、真衣の目をまっすぐ見ながら言った。

「度胸、ないんだ…」
　そう言ってから、真衣は、急に、視線を伏せた。
　言ってしまってから、
（なんで、こんなことを）
　と、真衣は悔いている。

　眞司は、腹が立った。
　いや、酔いのせいで、『どうでもいいや』という気持ちになっていた。

「女の子の部屋、オレ、入ったことないんだよ。だから、オレ、自信がないんだよ」
　眞司は、破れかぶれになった気持ちで、そう言い切った。

　真衣が、顔を挙げた。
「何の自信？」

　眞司は、ハッとした。
（こいつ、すげぇっ、魅力的な顔して、いやがる）
　股間が、少し、ムズムズしてきたような気がした。
　が、それを悟られぬよう、ちょっと、大きな声を出して、真衣に言った。
「おまえは、無防備だから、いやなんだ」

「何のことだか、わかんないよ」
　真衣が、真剣に答える。

「オレは、馬鹿だから…。無防備な女に対しては、自信がなくなるのさ」
　眞司は、自分のトーンが弱くなっていると感じる。もっと強気に出なきゃ、馬鹿にされる…。

「それって、理性のコントロールが効かなくなる、ってこと？」
　真衣が、上目遣いに聞いて来る。

「ああ、そうだ、そのとおりだ。おまえ、ちゃんと、わかってるじゃないか」
　眞司は、うれしそうに言った。
　そして、内心、眞司は、（こいつは、まんざら、馬鹿じゃない）と思った。

「それじゃ、またな」
　眞司は、さよならのつもりで、右手を、顔のあたりまで、持ち上げた。

「コーヒーだけ、だって、言ってるのに…」
　眞司が見ると、真衣が、むれていた（＝怒って、ムッとしていた）。

　眞司は、腹が立った。
（こいつは、男のことがわかっていない…。おまえみたいな、いいオンナを前にして、コーヒーだけで済ます男がいるかよ…）

「オレは、紳士じゃないから…」
　眞司は、彼女を真っ直ぐに見て、言った。
（こいつは、すっげぇ、美人だ。こいつに心を動かされない人間がいたら、ここに連れて来てもらいたいぐらいだ）

「何で、男って、自制心が働かないのかな？」
　真衣が、小首を傾げている。
　実際、真衣は、高校時代のことを思い出している。デイトの別れ際、本当に、彼氏は、目をギラギラさせて、わたしの顔に迫って来た…。

「そんな、男ばっかりのせいに、すんなよ」
　眞司は、女の子に抗議した。
　
　真衣がキョトンとしている。

　眞司は、（こいつは、やはり馬鹿だ。いくら英語ができると言っても、男の子のことはわからないみたいだ）と思う。それで、追い討ちを掛ける。
「おまえの、そのスラッとした足に欲情しないやつの顔が見てみたいよ」

「おあいにくさま。わたしの周りの男の子は、みんな、紳士なんだから」
　真衣が、手を腰にやって、こっちをにらんでいる。

（もう、お手上げだ。こいつには、自分の魅力というものが、ちっとも、わかっていない…）
　眞司は、ニャッと笑った。

　真衣は、頬の筋肉をヒクヒクさせながら、目だけを、キラッと光らせた彼の顔に、内心、ギクッとした。
　どこかで見た顔だった。
（そうだ、昔の彼氏も、そんな顔をした時があったわ…）
　真衣は、このまま別れたくなかった。もっと、話がしたかった。彼のことをもっと知りたかった。どこが昔の彼氏に似ていて、どこが昔の彼氏とは似ていないのか、それが知りたかった。
　真衣は、言った。
「コーヒーだけ、って、言ってるんだから、コーヒーだけ飲んで、サッサと帰ればいいのに…」

　真衣は、それでも、目の前の彼の目が、きちんとは見られなかった。
　コーヒーの良い香りだけじゃない。自分は、彼の匂いも嗅ぎたいと思っているにちがいない…。
　真衣は、恥ずかしかった。
　彼からの返事がない。
　こわごわ、視線を上げる。

　彼は目を見張っていた。瞳孔が大きく開いたような目。
　それは、真衣に、高校時代の彼氏の目を思い出させた。
　真衣は、目の前の彼が、自分の部屋に上がり、もう少し自分と一緒に居てくれることを願っていた。

　眞司は、目の前に立っている女の子が真っ直ぐに自分を見つめているのに気がつき、ドギマギしている。でも、踏みとどまるべきか、うちへ帰るべきか、まだ迷っていた。

　去りがたいのだ。
　真っ直ぐな、白い足を、眞司は見ていた。

　眞司は深呼吸をした。
　こんないい女が、オレのこと、構うわけがない、と、自分にしっかりと言い聞かせた。
「じゃ、すぐ帰るから…」
　眞司は、そう言って、真衣より先に、マンションの玄関に向かって、歩きはじめていた。
　でも、眞司は、（ヤバイことになりませんように）と、心の中で祈っていた。


　眞司は、彼女の動きを目で追っていた。
　彼女は、コーヒー豆を挽き、そして、フィルターで漉している。
（そこまで、しなくても）
　そう思ったが、彼女に差し出されたコーヒーをひと口飲んでみると、それは、とてもおいしいコーヒーだった。
「ああ、おいしいね。厚かましく、やって来たけど、よかったよ」

　真衣は、眞司の、うれしそうな笑顔を見ている。
（ああ、やっぱり、高校の時の彼氏に、似ている、似ている…）

　ゆっくり飲みたかったのに。
　カップに、もうコーヒーはなかった。

「ありがとう。じゃ、またね」
　眞司は、重いと自分では感じる腰を上げる。

「まだ、いいじゃない」
　真衣が言った。

（何で、このオンナは、馬鹿なんだろう）と、眞司は思う。（まったく、男を警戒していない。よほど、彼女の周りに居た男は、みんな、真面目だったのだろう…）

「オレ、女の子に、迷惑かけたくないんで」
「迷惑だなんて、思ってないよ」

「好意を感じてる子には、特に…」
「ウン？…」
　真衣が小首を傾げている。

　そんなあどけない顔をした真衣を見ながら、
（こいつは、馬鹿だ、馬鹿だ）
　と、眞司は、心の中で思う。

　そして、必死で、おのれの中で湧き上がってくる欲情と戦っていた。

　ふたりの間に、気まずい沈黙が流れている。

　しかし、眞司は、急に、何かの匂いに気づきはじめていた。
（彼女の匂いだ！）
　それは、いい匂いだった。いや、とてもセクシーな匂いだった。

　男の官能が、くすぐられる。
　眞司は、彼女の、ふっくらとした太腿を撫でてみたくなった。そして、ちょっとばかり、彼女のくちびるを吸ってみたくなった。すると、股間のモノが、大きく首をもたげはじめた。

（いけない、いけない。彼女を女として見たらいけない）
　眞司は、欲情する思いを打ち消すために、頭を左右に、ブルブルッと振るわせた。

　眞司は、目をしっかりと瞑って、理性を働かせようと懸命になる。
（こいつは、得意の英語で、ちゃんとした会社に入って行く人間だ。オレなんかと付き合うと、ろくなことにならない）と、眞司は自分に言い聞かせる。

　眞司は、彼女を見ないようにして、席を立ち、いつの間にか、玄関のドアのところに立っていた。
　彼女のことが怖かった。それで、早く帰らなくては、と、思ったにちがいないのだ。

　目が、どうかしている、と眞司は思った。
　玄関ドアのカギの在り処が見えないのだ。水平になったフックを垂直に立てると、ドアは開くにちがいない。が、そのフックが見えないのだ。
　
　すると、そばに、彼女が来た。
　眞司は聞いた。
「どうしたら、ドアが開くんだったけ？」
　しかし、彼女は、黙っていた。

　真衣は、彼のそばに立っていた。
　彼の匂いがした。
　なつかしい匂いだった。
　これは、まさしく、高校時代の彼氏の匂いだ。

　昔、彼氏が、急に、自分に近づいて来た時のことを、真衣は、思い出していた。
　あの時、彼氏の匂いがした。
　なぜか、自分は、目を閉じてしまった。
　そうしたら、自分のくちびるに、彼氏が、唇を押し当てて来たのだ。
　自分は、からだが震えた。
　膝がガクガクして、立ってはいられないほどに。
　それで、自分は、彼氏の腕を振りほどき、彼氏の許から逃げるように駆け出していた。
　怖かったのだ。いや、彼氏に、自分の心の動揺を悟られたくなかったのだ。
　あの後、彼氏から、『ごめんね』というメールが来たのに。

『大丈夫よ、何でもなかったから…』
　本当なら、そう、彼に返信してもよかったのに。
　でも、大丈夫じゃなかったから、何の返信もできなかった…。

　
　眞司は、顔を伏せ、黙りこくったまま、突っ立っている彼女に対して、何をすべきかわからないでいた。

（ドアの開け方がわからないんだから、早く、教えてくれればいいのに…）
　眞司は、そう思いながらも、からだが震えるのがわかった。
　彼女がそばに突っ立ったまま、動こうとしないのだもの。これじゃ、いくら紳士的な人間であっても、欲情するにちがいないのでは、と思ってしまう。

　膝頭が、ガクガクと震える。
　それを彼女に悟られたくなくて、強がりを言う。
「そんなにそばに来られたら、オレなんか、まったく、だらしなくなっちゃうよ。もう少し、英語を勉強して、英国風の紳士に、ならなくっちゃ、ね」

「紳士になんかならなくていいよ。自分の気持ちに正直になったらいいよ」

　眞司は、一瞬、誰がしゃべっているんだろうと、思った。
　が、この部屋には、彼女とオレしかいないのだ。
　彼女がしゃべったにちがいなかった。

「いいんだろうか、自分の気持ちに従っても？」
　眞司は、自分自身に、いや、彼女に聞いていた。

　彼女は、顔を俯けたまま、黙っている。

　眞司は、手を伸ばし、彼女の顎に、その手を置いた。その手を少し上に持ち上げる。濡れた唇があった。視線を挙げる。彼女の目は閉じられていた。安心して、また、視線を彼女のくちびるに戻す。一部、口紅が剥げていて、生身の肉が見え、それが妙に心をくすぐる。自分の唇でもって、彼女の口紅を薄く引き伸ばし、剥げた箇所を包み隠したい。

　眞司は、彼女のくちびるに、自分の唇を押し当てた。そして、厚く塗られた口紅を、薄く伸ばそうと、彼女のくちびるの上で、自分の唇を左右にゆっくりと動かす。彼女のくちびるは、とてもやわらかく、その感触の良さが、脳を快く刺激した。いつまでも、左右に動かし続けたいと思う。
　しかし、自分の唇の間に、ヌルッと、彼女の舌先が入り込んできた。眞司は、ちょっと驚いたが、その生ぬるい感触は、官能を刺激して、理性を飛ばしてしまった。
　眞司は、彼女のからだを引き寄せていた。おのれの唇を開いて、彼女のくちびるや舌先をしっかりと吸い始める。
　股間のモノが硬くなる。
　思わず、眞司は腰を引いていた。

　がしかし、彼女の手が伸び、眞司の首の後ろに回った。そして、彼女が、眞司のからだを引き寄せはじめる。
「真衣、だめだよ」
　彼の声が、真衣の耳元で、甘く溶けていく。
（声まで、そっくりだわ）
　真衣は、彼氏の匂いを嗅ぎたくて、彼の上半身に密着していく。

「真衣、ごめん」
　目の前の彼が情けなさそうな声を出す。

　真衣は、彼のことをいじめたくなる。で、下半身ごと、彼のからだにぶつかっていく。
　と、真衣は、太腿に、コツンとぶち当たるものに気づいた。
　それは、まさしく、かつて、高校時代の彼氏に、違和感を持った時と同じ感触だった。あのときは、本当に、（何で、固いものをポケットになんか入れて歩くのかしら）と思ったものだった。
　が、今は、違う。
　彼が、興奮しているのだ。
　しかも、彼はからだ全体を震わせている。

　彼は、唇を外して言った。
「真衣、だめだよ。そんなことされたら、ボクハ、ボクハ…」
　彼の声が、震えている。
　でも、『真衣』と名前を呼んでくれたことがうれしい。
　しかし、それにしても、何という、女々しい声なんだろう。もっと、男らしくして欲しい…。

　でも、高校時代の彼氏も、キッスした時には、そんなにカッコいいことは言っていなかったように思う、と、真衣は昔のことを、思い出そうとしている。
　もっとも、そのとき、自分も頭の中が真っ白になって、何もわからなかったように思う。
　いや、急に、何か怖くなって。そして、自分が高揚していくのを彼氏に悟られるのが、とても恥ずかしくて、彼氏の腕を振りほどき、身を翻して、逃げてしまったのだ。が、今は、もう、目の前の、胸の鼓動を大きくしている彼の許を逃げたくない。あの時、逃げたことを、ずっと後悔し続けて来たから…。

　真衣は、彼のからだが熱くなっているのを知った。
　その熱いからだを引き寄せながら言った。
「いいのよ。恥ずかしがらなくてもいいのよ。あなたが思うようにしたらいいのよ」

「でも…」
　眞司の声がかすれている。

　真衣は、眞司の目を見た。
　その目が濡れている。

（男の子でも、人前で、涙を見せること、って、あるんだ…）
　真衣は、安心したように、自分の顔を、心もち上げながら、目を閉じた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）