５　やきもちは恋のはじまり

　眞司は、目覚めた。
　天井を見る。自分の部屋ではない。
　横に寝返りを打つ。そばに、女の子がいた。

『誰だ？』
　しかし、眞司は、すぐに、それが真衣だと気づいた。

（こいつは、化粧を落すと、こんな顔なのか？）
　セクシーでも何でもなかった。
（こいつは、ただの高校生。いや、中学生じゃないか）

　眞司にとって、今の真衣は、世の中のこと、何も知らない、あどけない少女にしか見えないのだ。

『よかった。こいつと無理矢理セックスしなくて』
　眞司は、胸を撫で下ろしている。

　実際、昨夜、真衣が股間のモノを触ってくれたとき、『入れたい』と思ったような気がする。
　でも、入れなくて良かった、と思う。
　こいつは、まだ、少女なのだ。挿入したら、きっと、痛がるだろう。

　と、真衣が、目を開けた。
　横向きになって寝ているせいで、眞司は、顔をそむけるわけにも行かず…。
　
「眠れた？」
　真衣は、はっきりと、眞司のことを認識しているみたいだ。

「ああ、おかげで。ありがとう」
　そう、言いながら、眞司は顔を赤らめている。
　こんなに間近で、好きな女の子の顔をながめていられる自分を幸せだと思う…。

「何か、食べる？」
「うん、いいよ。オレ、もう、帰らなくっちゃ」
「急がなくてもいいよ。パンとコーヒーだけだけど、食べて帰りなさいよ」
「いいのかな？」
　眞司は、困っていた。おどおどしていた。朝飯なんか食って帰るなんて、いかにも図々しくて、何か、彼女にきらわれそうだった。きちんと、ことわるべきだ。

　が、気がつくと、もう、低いテーブルが絨毯の上に置かれ、その上に、トーストを載せたお皿と、少量のスクラッブルエッグ・トマト・レタスの入ったお皿が置いてあった。

　眞司は、飛び上がって、顔を洗いに行った。
　顔がジャリジャリしている。髭が伸びているのだ。ここには、カミソリもないだろう。

　眞司は、卓袱台のような、座り用テーブルの前に、正座して座った。
　そして、コーヒーを飲んだ。おいしかった。
　最初、遠慮はしたのだけれども、やはり、おなかは空いていたらしい。

　沈黙がある。

　眞司は、沈黙を破りたかった。
（いや、こんなに朝食まで作ってもらって。いつか、食事にでも誘わなくては）と思ったのだ。

　眞司は、自分のケータイを取り出す。
「すまないが、メルアド、教えてもらえる？、君の？」
　眞司は、冷や汗を掻いている。（もし、ことわられたら？）

　見ると、彼女は、眞司のケータイを取り上げた。
　開いて、何か、ごちょごちょ、操作をやっている。
　そして、彼女は、立ち上がって、自分のケータイを持って来た。
　自分のケータイも、ごちょごちょ、機能をいじっているようだ。

　と、彼女は、ふたつのケータイをくっつけた。

「はい、入っているよ」
　真衣は、彼の手に、彼のケータイを戻していた。

「あっ、それで、もう、入ったの？」
「そうだよ」

　彼は、ケータイを開いて、確かめているようだ。
「あっ、入っている」
　彼は、大きな声を上げた、びっくりしたように。

「ありがとう」
　眞司が、うれしそうだ。

『こいつは、馬鹿じゃないか？』
　真衣は、そう思った。

　彼が、互いの赤外線ポートを合わせて、アドレス交換をする操作を知らなかったということではない。
　メールのアドレス帳に、女の子らしいものが、まったく見当たらず、最近のメールの着信履歴を見ても、男性のものばかりだったからだ。
　もっとも、真衣は、内心、安心している、『こいつはハンサムだけど、今、付き合ってる女の子はいないかもしれない』と。

　彼は帰って行った、うれしそうに。
　しかも、ケータイをちょっと顔の辺りまで持ち上げ、『サンキュー』とでも言いたげに…。
　でも、真衣には、よくわからない。
　彼は、キッスもせずに帰って行った…。


　金曜日だった、田村先生の英語の授業を受講している有志の集まりの飲み会は…。
　土・日曜、何度、メールをしたかったことか、眞司は。
　しかし、眞司は、我慢していた。
　それは、そうだろう、最初から、彼女に、（あいつは、なんて、厚かましいやつだろう）と思われたくなかった。
　まず、彼女にとって、ワン・ノブ・ゼムのボーイフレンドになるためには、品良くならなくてはならない、と眞司は思っていた。
　それに、もし、返信が来たら、それこそ、何度でも、返信を繰り返しそうだった…。
　

　火曜日、田村先生の英語の授業があった。
　土曜日、日曜日、月曜日と、眞司にとっては、すごく長かった。
　何をしている、というわけでもない。
　英語の本を開いたことは開いたのだ。そして、アルファベットの活字を目で追う。
　しかし、ものの３０分と続かなかった。
　それに、何か、彼女のことを想って、オナってしまいそうだった…。

　で、結局、スポーツ・ジムに行った。
　帰りに、ブック・センターに寄り、“Ｔｈｅ　Ｏｌｄ　Ｍａｎ　ａｎｄ　ｔｈｅ　Ｓｅａ”の翻訳である、〇潮文庫の『老人と海』を買った。自分の部屋に戻ると、日本語の訳文を、丸暗記でもするかのように、読んで行った。
　例えば、『老人は、ズボンを脱いだ。そして、暗闇の中で、ベッドで寝る準備をした。老人は、折り目に沿ってたたんだズボンの上に、新聞紙をていねいに載せ、新聞紙ごとズボンを丸めて行った。そして、それを枕にするのだった。老人は、それから毛布にくるまり、ベッドのスプリングの上にかぶせてあった、他の古い新聞紙の上に、その身を横たえて行った』と、いうように…。

　田村先生の英語の教室に向かう途中、眞司は、なぜか、足が震えた。
　何も見ないようにして、教室に入る。
　窓側の席を見る。
『あっ、空いている』
　眞司は、窓側の、一番うしろの席に座った。元（もと）の席だ。
　本来なら、この右の横に、彼女が座ってくれるはず…。

　真衣は、腹を立てていた。
（あいつ、何様のつもりなのよ！）
　真衣にすれば、コーヒーも飲ませてやったし、大事なウィスキーだって。それに、とても恥ずかしかったけれども、コンビニで、男性用の下着まで買って来てったじゃないか、という気持ちなのだ。

　それなのに、あいつときたら、梨のつぶて。
　メール一つ、寄越さない。
　高校時代の彼氏は、本当に、デイトのあとには、ちゃんと、メールをくれていた、『今日は、ありがとう。スッゴク、楽しかったよ』と。

　真衣は、眞司が来ているということは、わかっていた。しかも、前に座っていたことのある、窓側の一番後ろの席に座っていることも。
　しかし、近くになんか、行ってやるもんか、と思っていた。

　英語の授業は、もう終りの時間に来ていた。
　しかし、田村先生は、今日は、なかなか終わってくれない。
　これじゃ、完全に、時間延長だ。

　と、真衣は、マナーモードにしているケータイが振動しているのがわかった。
　真衣は、（あいつ、このあと、コーヒーにでも誘ってくれるのかな）と期待しながら、開く。が、差出人は、マークだった。ＵＳＡから来ている留学生だ。
『リュージュで、待ってるよ、相談にのって』
　しかたがない。真衣が高校の頃、夏休み、アメリカに留学した時、向こうではお世話になったんだから。
　真衣は、さっそくマークに返信した。
『ＯＫ』

　やっと授業が終わる。
　真衣は、マークをあまり茶店に待たせてはいけないと思い、急いで、教室を出た、眞司の方には、目もくれずに。

　眞司は、真衣が教室をいそいそと出て行くのをながめていた。
　後など、追えるはずもない。
　ひどく気落ちしたように、田村先生の英語があった教室に、ひとり残っていた。

　次の政治学の講義は出なくてはいけないのに。
　眞司は、マックス・ウエーバーの話が好きだった。
　眞司が講義で聞くところによれば、どうやら、マックス・ウエーバーという人は、『働くということは、宗教的に言っても、極めて尊く、善である』というようなことを言っているらしい。
　眞司は、働くという意味がどうしてもわからないのだ。でも、働くということが、宗教的にも善なるものとして、積極的に認められるなんて、なんというすばらしい考え方なんだ、と思ってしまう。

『働くということは、すごく立派なことなんだ』
　自分のような、怠け者にとって、そんな風に考えると、すごく元気になれる…。

　でも、今は、その講義室に向かう元気がないのだ。
　もう、この教室に座り込んだまま、３０分も経ってしまっていた。
　遅刻してでもいい、行くべきだ。
　しかし、眞司の足は、トボトボとしていて、法学部棟には向かっていなかった。
　眞司のからだは、正門を過ぎていた。
　と、よく法学部のダチと行く喫茶店の看板が目に入った。
『リュージュ』

（コーヒーでも飲んで、元気を出すか！）
　眞司は、茶店『リュージュ』のドアを押した。

「あっ！」
　小さいながらも、眞司は声を出していた。
　奥の席に、真衣がいたからだ。
　眞司は、すぐに、回れ右をした。
　ウェイトレスの人に、「ちょっと、用事を思い出しましたから」と言い、再びドアを押して、外に出ていた。
　深呼吸をする。
　立ち止まり、いつもより早く打つ心臓の音を鎮めていた…。

　眞司は、真衣に、メールをしていない。
　いや、できていない、というべきかもしれない。
　たぶん、冷静には、メールが打てない気がするのだ。
　好きということを、もろに言ってしまいそうな。

　それに今、メールすると、何となく、彼女のことを、なじりそうな気がする。恋人でも何でもないのに…。

　歩道を歩きながら、眞司は思う。
　喫茶店でデートしていたのは、背中しか見えなかったが、男の子だった。金髪だった。たぶん、外国の男性なのだろう。
　英語ができるのだ、彼女は。
　だったら、外国のボーイフレンドがいても不思議ではない。日本人のボーイフレンドなら、多少太刀打ちできるかもしれないが。日本人なら言葉は通じるから。
　でも、外国のボーイフレンドなら、意思疎通をしていくのはどだい無理だ。それに、外国人は、レディ・ファーストで、女性の扱い方は抜群にうまいにちがいない。オレなど、とても太刀打ちできないだろう…。

（俺は、結局、彼女にとって、ワン・ノブ・ゼムにもなれやしない）
　眞司は、暗い日々を送っていた。

　眞司の両親は、ふたりとも、公務員だった。
　父は、公立学校の教員。母は、学校司書をしている。
　一人っ子だった。
　ともかく、父方の祖父母、母方の祖父母、みんな健在で、眞司のことをかわいがってくれている…。
　
　それなのに、眞司は、しっかりとした考えも持てず、どんなところに就職すべきか、まだ、迷っている。
　でも、大学は、４年で卒業したい。
　就職活動がうまく行かなくて、研究生として、また余分に大学に残るようなことがないようにしなくてはならない。
　そのためには、早い時期から、きちんと単位を取っておいて、大学３回生の後期からは、しっかりと就活できるようにしておかなくてはならない…。

　眞司は授業に出ていた。
　大学の近くの、学生用マンションの部屋で寝ている、ということはない。
　それに、母がいつも、預金口座をチェックしてくれているみたいで、お金のことは心配がなく、バイトをしなくてはならない、というわけでもない。
　経済的には恵まれているはずだ。
　それにもかかわらず、眞司は、暗い顔をして構内を歩いている。
　火曜日の田村先生の英語の授業を、眞司は、はじめて、休んだ。


　昼になった。
　眞司は、食欲はあまりない。
　しかし、いつもの習慣なのか、学食に行く。
「きつねうどん」にする。

「真衣、彼よ、彼！」
　友達の美郷（みさと）が、真衣を腕の肘で突っついている。
　真衣は、後ろを振り向く。
　彼は、気がつかない。
　下を向いて、うどんを啜っているみたいだ、何か、考え事をしながら。


　真衣は、友だちの美郷と萌（もえ）から別れて一人になったとき、メールをした、眞司に宛てて。
『まずそうに、うどんを食べるな！。学食のきつねうどんは、十分、Ｂ級グルメになりうるんだからね・・・』

　眞司は、次の授業のため、法学部棟に向かっていた。
　スボンのポケットから、振動音が伝わって来る。メールみたいだ。
　ポケットからケータイを取り出す。
　差出人は、「真衣」とある。
　胸がドキドキする。
　あわてている。
　が、受信ＢＯＸの中には、確かに、真衣からのメールが。
　そして、『・・・今から、リュージュに行くけど、来ない？』とある。

（この際、授業なんか、どうでもいい）
　眞司は、すぐに返信した。
『いいよ。僕も、すぐに行くよ』

　眞司は、喫茶店に着いた。
　真衣が居た。
　いつだったか、真衣が、外国の人と、デイトしていた時と同じ場所に座っていた。
　眞司は、緊張していた。
　が、今は、その外人男性はいない。で、真衣の真ん前の席に座った。

「どうしてた？」
「別に」

「でも、このあいだの英語の授業、休んでたじゃない」
「ああ、あれは。他に、ちょっと、用事があって」

「デイト？」
「馬鹿なこと、言うなよ」
　眞司は、気色ばむ。

（こいつは、誰とでも、お茶しているんじゃないだろうか？）
　と、眞司は考える。
（が、これは、デイトなんだろうか？）
　と、眞司は、少し、うれしくなる。が、ともかく、彼女から声をかけてくれたのだから。

　眞司は、今日のお礼よりも、ずっと前のお礼を言うことにした。
「そのぉ…。前、以前に、コーヒーとか、オンザロックとか、ごちそうになって。ありがとう」

　真衣は、言った。
「英語の授業を、あなたがめずらしく休んだから、わたし、気がついたら、あなたのマンションの近くまで、行っていたんだからね」

　眞司は、目をシロクロさせている。
（本当なんだろうか？）

　真衣が、続けてしゃべっている。
「それに、もう半月前になるかしらね。わたしがこの茶店で、留学生と話をしている時に、あなたって、まったく、わたしのこと、無視して、また、外に出て行ってしまったじゃないの…」

　眞司は、驚いている。
（こいつ、あの時、気がついていたのか！）

　が、眞司としては、他の人間が、デイトの邪魔をしていいんだろうか？、と思うのだ。

　眞司は、さらに思う。
（別に、無視したわけじゃなく。俺は、邪魔になるから、退散しただけなのに）
　と。

　でも、眞司は、真衣の目が曇っていることに気がついた。
　何か、自分の気持ちを伝えなくては、と思った。
「無視なんか、するわけないだろう。ただ、俺は、君にとって、いくら努力しても、ワン・ノブ・ゼムにしか、なれないんだから…」

「だから、どうだと言うのよ」
「だから、俺は、君のデイトの邪魔はしたくない、と」

「デイトじゃないよ」
「じゃ、何だよ」

「あの子だって、体調を悪くすることだってあるわよ。水がちがうんだから。でも、ひとりで病院に行って、いくら一生懸命、病状を訴えても、通じないことがあるのよ、お医者さんや看護師さんに。日本語の語彙が、まだ十分じゃないものね。それで、わたしが、彼に、アドバイスをしてあげていたの」
「……」

（なんだ、デイトじゃないのか）
　眞司は、内心、ホッとする。

「それで、あなたは、やきもちでも、妬いたわけ？」
　真衣が、ちょっと小鼻に皺でも寄せるように、言った。

「まさか。そんな。ワン・ノブ・ゼムでもないオレが、どうして？！」
　そう、向きになって言ってから、眞司は、心の中が悲しくなる。

「あなた、わたしのこと、好きなの？」
　真衣が、小首を傾げながら聴いてくる。が、目はきちんと、こっちに向けながら。

「ウン？」
　眞司は、困ってしまう。
（外国からの留学生の子に、何もわからないまま、焼きもちを焼いてしまった…。ということは…）

「だったら、なぜ、メールぐらいしないの？」
　真衣の目が怒っている。

（こいつ、真剣なんだろうか？）
　眞司は、まっすぐに、真衣の目を見る。
　澄んでいる。

（本当に、真面目に、抗議しているみたいだ）
　眞司はそう思った。

　眞司は、あやまることにした。
「ごめんなさい。君に迷惑をかけるんじゃないか、と、心配していて。メールをする勇気が…」

「本当なの？」
　真衣は、疑り深い。

「本当なんだ、それは。僕は、何か自分に自信がなくて、真正面から、君に立ち向かえないでいる…」
　眞司は、真面目に答えた、と思った。

　真衣は、食い入るように、彼の、目の中を見た。
　何か、恥ずかしそうな色合いに変化したような気がする。

　それは、真衣にとって、彼の黒いまなこは、奥に急に沈み込んで小さくなり、そして、白い目の部分は、まるで、白い雲が追い払われ、青く澄み渡っていく空のように、青く澄んで行くように思えた。

（どこかで見たような…）
　真衣が、そう思っていると、彼の、澄んだ目の中に、何本かの朱色の線が、走り過ぎていくのが見えた。
（ああ、高校のときの彼氏も、わたしを看る時、そんな風に目の色が変化していた…）
　真衣は、思わず、視線を落としていた。

　真衣は、胸の中が熱くなるのを感じている。

（ひょっとして、目の前の彼も、わたしに恋をしている？）
　真衣は、ひとり、心の中でつぶやいていた…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）

　参考文献“Ｔｈｅ　Ｏｌｄ　Ｍａｎ　ａｎｄ　ｔｈｅ　Ｓｅａ”「老人と海」