| ８ 心が落ち着かない眞司 眞司は帰った、朝早く。真衣の学生マンションの誰かに見つからないように。 あれから、何となく落ち着かない。 彼女とキスをした。彼女にマスを掻いてもらった。彼女にあそこを触らせてもらった。十分過ぎるほどの関係を持つことができたのだ。 しかし、彼女の心をしっかりと捉えられているかというと、そういうわけではない。彼女とキス以上の関係にはなったが、依然として、自分は、彼女にとって、“ｏｎ ｏｆ ｔｈｅｍ”のボーイフレンドにしか過ぎず、決して“ｏｎｌｙ ｏｎｅ”の恋人になれてはいないのだから。今、眞司にとって関心のあることは、彼女の唯一の恋人になるには、どうしたらいいのか、という点に尽きる…。 とにかく、授業に出て、優秀な学生になることだ。 そのためには、どうしたらいいか。講義の予習・復習をし、かつ、関連の書物を読むことだろう。 そして、スポーツ・ジムに通い、カッコいい体型になること。 それから、禅寺に行って、座禅を組み、精神修養をして、嫉妬深くない、包容力のある人間になること。 それから、それから、たぶんアレだろう…。やはり、セックスだって、へたより、上手な方がいいに決まっている…。 しかし、眞司は、真衣の恋人になれる条件を、頭の中で考えたものの、いざ、それを実行に移すとなると大変なことだと悟った。 でも、あきらめるわけには行かない。彼女とディズ〇ーランドや、ディズ〇ー・シーへいくためには。 ところで、まったく、くだらないことだが、彼女との接近戦にそなえ、歯を磨く時間だけは、長くなったように思える…。 理想は理想、現実は現実だ。 苦しい日々が続く。 勉強しようと思っても、真衣のことが思い起こされる。 スポーツ・ジムに行き、汗を流す。 しかし、部屋に戻り、いざベッドに入るたびに、真衣の股間をいじめた時の、真衣の苦悶と快楽の入り混じった表情が思い出されるのだ。そして、その幻想は意思の力ではとても消すことができず、ついには、眞司は自分の手が股間に伸びるのを感じるのだった。 夜中であろうと、真衣を訪ねて、真衣のマンションに行きたい。でも、そんなことをしたら、真衣にきらわれるだろう。真衣に会いに行きたい気持ちを抑えるには、マスを掻いて、行きたい気力を殺ぐしかなかった…。 火曜日が来た。 やっと晴れて、真衣に会える。 眞司は、いそいそと、田村先生の英語の授業に出かける。 みんなより早めに教室に着き、いつもの、窓際の一番うしろの席につく。 田村先生が来たのに、隣の席に、真衣は来なかった。背筋を伸ばして、教室を見渡す。が、真衣の姿はなかった…。 （どうしたんだろう？） しかし、メールもできない。授業中なのだ。 かといって、授業に集中している、というわけでもない。真衣の顔が見えなくて、ただただ悲しいだけなのだ…。 その日の夕方、眞司は、ローソンで弁当を買い、自分の部屋に戻った。が、食欲がない。 まさか、真衣のやつ、病気でもあるまい。いや、おとうさんが具合でもわるくなって、我が家に帰ったのかも。いや、ひょっとして、デイトだったのかも…。胸騒ぎがする。真衣に会いたかった。自制心が飛んだ。眞司は、真衣にメールを打っていた。 「茶店で会わない？。君の家の近くの」 メールを打ってから、眞司は、真衣からの返信をずっと待った、夕飯の弁当も食べずに。 ７時が過ぎる。８時が過ぎる。９時が過ぎる。とうとう眞司はあきらめた。コンビニで缶ビールでも買って来て、そのビールで、ご飯やおかずを咽喉元に押し込もうと思った。そして、風呂に入って寝よう、と思った。 コンビニへ行こうと、机の上に置いていた財布を取る。と、メールが鳴った。真衣からだった。 「出かけていたの。これからでもいいなら、いいよ」 眞司は、すぐに返信した。 「３０分後に、茶店の『杏奴』で」 眞司は、別に、真衣と、茶店『杏奴』に行ったことはない。 しかし、眞司は、真衣のマンションから帰る途中で、なぜか、そのお店の名前を暗記していた…。 眞司は、茶店の『杏奴』に入った。 真衣はまだ来ていなかった。 約束の時間から、１０分経つ。２０分経つ。３０分経つ。さすがに、眞司はイライラして来る。催促のメールを打とうと、ケータイを手にする。と、メールが鳴った。真衣からだった。 「どうしたの？」 真衣からの返信だ。 しかし、眞司には、何のことだか、よくわからない。 で、ともかく返信する。 「もう３０分も、杏奴で待っているんだけど」 「どうして？」 真衣から、不審そうなメールが、また、来る。 眞司は、頭に来て、店員さんに断って、店の外に出る。真衣にケータイする。 「はい」 真衣が出た。 「オレ、眞司」 「わかってるよ」 「ずっと待ってるのに、どうして来てくれないんだ？」 「近くまで、来ているんでしょ。だったら、部屋に来れば」 真衣は機嫌がわるそうだった。 が、眞司には、怒りの感情が押さえ切れない。 （マンションに行けば、なかなか帰れない。だから、外で会おうと言っているのに、何で、そんな単純なことが、あいつには理解できないんだ！） 眞司は、それでも感情を抑えながら、しゃべっている。 「茶店で会おうと言って、君もそれにＯＫしてくれたじゃないか！」 「そんなこと…。来ればいいじゃない。あなたは部屋を知っているんだし、コーヒー代もかからないわけだし」 「そんな問題じゃないんだ」 「どういう問題なの？」 「つまり、喫茶店で話す方が、冷静に話せるじゃないか」 「ふーん。わたしは、お部屋の方が、落ち着いて話せるけどね」 「君はそうかもしれないが。僕は、ちがうんだ」 「どうして？」 「どうしても」 「わからない、わたしには、あなたの言ってることが…」 眞司は、我慢している。 やはり、彼女に会いたいのだ。このまま怒ってケータイを切ってしまったら、今夜は彼女に会えなくなる…。 眞司は、深呼吸をした。そして、口を開く。 「僕は、どうしても、会いたいんだ、君に。もし、お風呂に入っていなかったら、こっちへ出て来てくれないかな？」 眞司は、言いながら、涙が出そうだった…。 「いいよ」 真衣から、ようやく、承諾の言葉をもらった。 「じゃ、待っているから、ここで」 眞司は、ケータイを切り、フーッとため息をついた。 真衣は、気分がわるかった。 英米学科のクラスの友達と、居酒屋で飲んだのだ。 飲み放題・食い放題で、１人、１，９８０円というのは、安いと思うのだ。 今、マンションの部屋に帰って、お水はしっかり飲んだけど、居酒屋で、ワインとか、カシスオレンジ、ハイボールとかを飲みすぎて、気持ちが悪いのだ。 『でも、あいつ、待っているだろうな…』 眞司から夕方、メールの着信もあったし。眞司が首を長くして待っているだろうことが、真衣には何となくわかる…。 眞司には、わるいことをしたと思っている。真衣は、このあいだ、アノ時、昔の彼氏の名前を呼んでしまった、ということが気になっている。『行かなくては』と真衣は思う。が、何と、髪はバサバサだ。帰ってから、うたた寝をしていたらしい。シャワーを浴びなくては。でも、頭がズキズキする。飲みすぎたみたいだ。それでも、バスルームへ向かう。シャワーを浴びながら、『あいつは、ともかく、こまめじゃない。いつも、わたしは、メール、待っているのに、あいつは、梨のつぶてだもの…』と思う。 『好きなら、毎日でも会いたいと思うのが普通じゃないかしら。でも、あいつときたら、冷たいものだ…』 真衣は、ダチの萌（もえ）が、『あいつ、このあいだ、図書館で、女の子と楽しそうに話していたよ』と言っていたのも気にかかる…。 眞司は、喫茶店『杏奴』で真衣を待っていた。が、真衣は、なかなかやって来ない。『杏奴』は、真衣のマンションから歩いて１分もかからないところにあるというのに。 （遅すぎる！） 眞司は苛立っている。 真衣から、「いいよ」という返事をもらってから、もう、３０分も経っている。 （ひょっとして、誰か、部屋に来ているのかもしれない） 眞司は、嫉妬心に駆られている。 このままでは帰れない。 彼女にきらわれてもいい。彼氏と鉢合わせになってもいい。ともかく、彼女のマンションに彼女を訪ねて行こう。 眞司は、レシートを取り上げた。 と、目の前に、真衣が立っていた。機嫌のわるそうな、青白い顔で…。 （こいつ、どうしたんだろう。えらく、髪が濡れている。それに、顔色もわるい…） いたわってやらなくては、と思うが、心の中には、何か、煮えくり返っているようなものがある。 眞司は真衣に聞いた。 「何にする？」 「わたし、お水でいいわ」 「えっ、また、おまえ、お酒、飲んだのか？！」 「ええ」 眞司は呆れている。 （こいつ、海外留学でもして、学年、ダブってるんだろうか？） しかし、それにしても、はたちそこらで、ちょっと、飲みすぎじゃないだろうか？。 「誰と？」 「クラスの仲間よ」 「男の子もいたのか？」 「いたよ」 「止めるやつはいなかったのか？」 「いるわけないよ。みんな、楽しく飲んだわよ」 眞司は、ムッとしていた。 （こいつは、馬鹿なんだ。男って、みんな、酔っ払った女の子が好きなんだ。相手が酔っているんだから、わかりっこないと、男どもは、さわり放題だ…） 「まぁ、おまえが誰と飲もうと、俺には関係ないけど…」 眞司は、真衣に、そう言ってしまってから、こりゃ、捨て台詞だなと思い、いやな気分になる。 「妬いているの？」 真衣が鼻先で笑っている。 「馬鹿。妬くわけなんか、ないだろう。俺は、どうせ、“ｏｎｅ ｏｆ ｔｈｅｍ”だし。ただ、男の子はみんな、オオカミだよ、って、忠告しているだけだよ」 眞司は、そう言って、水をあおる。 （そろそろ帰って、寝よう。が、アルコールを入れないことには、ひょっとして、今夜は眠れそうもないな） 「あなた、この前、女の子と、図書館に行ったの？」 「うん？」 「ダチの萌が、見たと言うから…」 眞司は、記憶をたどる。 （ああ、そうだ。法学科の女の子が、ノート、見せてくれというから、そのところだけ、コピーを取りに行ったんだっけ。図書館にあるコピー機を使うために） 「そうだ。ともかく、オレ、字がへただから、ノート、貸してやるわけにも行かず。必要なとこだけ、コピーして同級生に渡してやったんだよ」 「まぁ、親切なこと」 「だって、しようがないだろう。夏風邪引いて、講義、休んだんだから」 「そんな自己責任よ」 「風邪引いたこと、講義を休んだこと？」 「どっちもよ」 「でも、おまえだって、このあいだ、田村先生の英語、休んだじゃないか！」 「あれは、マークに、医学専門用語の日本語を教えていたからよ」 「ふん、親切なことだ」 「そんな風に言わないでよ。マークはちゃんと、それらをレポートにまとめて、他の大学の留学生にも、教えてあげているんだから」 眞司は、真衣からマークのことを聞いてから、一度、構内でマークの姿を見かけたことがある。 背が高くて、足が長くて、目がブルーで、色が白くて、鼻が高くて、眉毛が濃くて、ハンサムだった。 （あれでキスでも上手だったら、とてもじゃないが、オレなんか、太刀打ちできない…） 「で、何の用なの？」 真衣が、真面目な顔をして聞いて来る。 （ただ、会いたかったんだ。ひと目、顔を見たかったんだ） 眞司は、そうつぶやくが、言葉にならない。 「……」 沈黙がある。 「じゃ、用事ないんだったら、わたし、帰るね」 真衣が立ち上がる。 と、真衣がからだをかがめ、両手で、口を押さえている。 「どうしたんだ」 眞司も立ち上がる。 真衣は顔色がわるい。どうも、吐きそうな気配だ。眞司は急いで、ハンカチを出し、真衣の手に渡す。そして、眞司は、真衣の腋の下に自分の肩を入れ、半分抱きかかえるようにして、トイレに向かう。入り口のドアを開け、女性用トイレに入る。幸い、中に他人（ひと）はいなかった。さらに進んで便器のあるところまで連れて行き、背をかがませて、便器の中に吐くように促す。背中をゆっくりと撫でてやる。すると、ムッとしたような臭い匂いが鼻をつき、真衣の口から汚物が吐き出されたような気がした。他人が入って来るのが、気になる。眞司は、トイレを流す。真衣を前に進むよう促すが、足元がふらついている。しかたがない、真衣を背負って、女性用のトイレを出る…。 茶店を出た。眞司は彼女を負ぶっている。マンションまで近い。それに、人目がまったく気にならない。 真衣のバッグからカギを出す。部屋に入り、壁際にセッティングされているベッドを引き下ろし、真衣をそのベッドの上に寝かせた。 「まだ、吐きそうかい？」 眞司が聞くと、真衣は力なく、頷いた。 急いで、バスルームから洗面器を取ってきて、それに折りたたんだ新聞紙を入れ、新聞紙の上に、ティッシュ・ペーパーを敷き詰める。 「もう一度、吐いたら？」 眞司は、そう言いながら、真衣の背中を撫でてやった。 真衣は、洗面器に顔を突っ込むようにして、また、胃の中のものを吐いた。 真衣は、一息ついたように、ベッドで仰向けになった。眞司は、真衣の汚れた口許を、ティッシュ・ペーパーで、きれいに、ぬぐってやった。 （まったくもって、こんなになるまで、飲むなんて…） しかし、その一方で、こんなに気分がわるいのに、喫茶店まで、よく出て来れたものだと、感心せざるを得ない。 すると、また、真衣は起き出し、洗面器に覆いかぶさるようにして、汚物を吐いた。 （これでは、帰るに帰れないではないか）と、眞司は思う。 しばらくすると、真衣は、小康状態に入ったようだ。眞司は、汚物処理に、トイレに向かう。眞司は洗面器を洗いながら思う。 （あいつときたら、平気で男の子たちと付き合えるんだ。それに、酒好きと来ている。しかも、意外に、あいつには焼き餅やきのところもある。考えてみると、俺は、やっぱり、おとなしい子がいい。たくさんの子とじゃなく、『付き合うのは、俺ひとりのみ』みたい感じで、とにかく地味な女の子がいい。そういう女の子なら、やきもちを焼くこともなく、落ち着いて生活できるだろう。もう、止（ヤ）めだ。あいつと付き合うのは。今なら、まだ間に合う…） 眞司は、真衣のそばに戻った。 足の膝を絨毯の上に突き、上体をかがめるようにして、真衣の顔を覗く。 かわいい顔をして、よく眠っているようだ。 （いつも、こんなにおとなしい子だったらいいのに…） 眞司は、そっと、真衣に、『おやすみなさい』と、言った。 ドアのカギは自動ロックになっているだろう。静かに、俺は、この部屋を出て行こう。 眞司は、真衣の寝顔に向かって、もう一度、心の中で、『さようなら、真衣。おまえのこと、スゴク好きだったよ』と、つぶやいた。 眞司は、立ち上がる。 と、真衣が、パッチリと目を開けた。 まばたきもせず、眞司を見上げている。 （なんで、こいつ、急に、目を覚ますんだ！） 眞司がそう思った時、 「どこへ行くの？」 と、真衣が尋ねた。 「いや、なに。君の気分は、良くなったみたいだし。俺、そろそろ、おいとましようかな、と思って…」 眞司は、何か、わるいところを見つかった中学生のように、頭を掻いていた。 「わたし、まだ、気分、わるいよ」 真衣は、不機嫌そうに言う。 （そうなのかな？）と眞司は思う。 「じゃ、もう少し、ここに居ようか」 「うん」 真衣が、うれしそうに、頷く。 眞司も、うれしそうに、笑っている。 『くそっ、これじゃ、帰れないじゃないか』と自分に毒づきつつも、真衣のそばに、まだ居られるということが、眞司には、すごくうれしいのだった。 （つづく） |
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| 2010.10.23掲載 |
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