| ９ 勝手に手が出せない眞司 眞司は、真衣のことを気遣っていた。さっきまで、真衣は気分がわるくて、吐いていたのだから。 「休んだら、どう？。僕は、ここにいるから」 『うん』と言うように、真衣は頷き、目を閉じた。 眞司は、 （いつも、こんな風に、素直だったらいいのになぁ） と思う。 茶店の『杏奴』に居た時のように、仲たがいをするのは、いやだ。いつも、互いに気を使い合い、思いやりを示し合い、優しい関係でありたい…。 眞司は、真衣のすぐそばに居られて、すごくうれしいかった。 真衣は目を瞑っていて、眞司は、安心して真衣の顔を眺めることができた。 濡れたくちびる。 それを奪ってみたいような気がする。 胸のところには、シーツが掛けられているが、こんもりと盛り上がっている。むろん、そのおっぱいに触ってみたい気がする。 真衣の匂いがする。 頭の中に、もや（靄）のようなものがかかり、官能が刺激されるようだ。 股間のモノが、ビクン、ビクンと、呼吸している。 でも、眞司はがまんした。 真衣は、今、お酒の飲みすぎで、気分がわるいのだ。 その上、他人にからだを触られたら、また、吐き気を催して来るかもしれない。 眞司は、目を瞑った。真衣の顔や、真衣のシーツの下のからだの格好を見ると、性的な刺激を受けるから。 眞司は、真衣のことは考えずに、深呼吸をした。森の中にいて、森林浴をしているような気分になろうとしていた。 と、いつの間にか、眞司は、絨毯の上に寝そべっていた。 「起きて」 眞司は、誰かの声を聞いて、目を覚ました。 「えっ！？」 「朝よ」 目の前に、真衣がいた。 うちに帰らず、真衣の部屋で眠ってしまったらしい。 真衣の顔が青白く見える。 眞司は、夕べのことを思い出している。 「大丈夫？」と真衣に聞く。 「ええ」 真衣は、少しはずかしそうに、言った。 「あなた、授業は？」 「ああ、今日は、朝からあるよ」 「あら、そうなの。わたしは、２校時からよ」 「いいなぁ」 眞司は心底、そう言う。でも、人の部屋とも知らず寝込んだらしく、寝不足というわけではない。 「わたし、近くのコンビニに、買い物に行って来るわ」 「えっ！？。僕、帰らなくては」 「食べて行きなさいよ、ここで」 「でも…」 「いいから、ここで、ちょっと、待っていて」 そう言い捨てて、真衣は、買い物に出かけてしまった。 眞司は、真衣の部屋に、ひとり、残された。 眞司は、お化粧の取れた真衣の素顔を見てしまっていた。 目は、とてもやさしかった。 とすれば、今までは、彼女が、つけ睫毛をしていたり、濃いアイラインを塗っていて、僕だけが勝手に『気の強そうな女だ』と、思っていただけなんだろうか？。 でも、ともかく、今朝は、決してセクシーな顔ではなかった。極端な言い方だが、彼女はまるで純真な高校生みたいだ…。今まで、眞司は、ちょっと色気のある、大人の女を、彼女に感じて来たのに…。 彼女が、心根のやさしい子で、眞司は安心したような気がする。 いや、最も、その安心感というのは、６割程度までであり、残り４割ぐらいは、がっかりしたような気持ちもある。 眞司にすれば、セクシーな女の子として、性欲を刺激されていた部分が大きかったような気がするからだ。 実際、夜、眠るとき、真衣のことを思い出すと、幻想の真衣を抱き寄せ、キスしようとしている自分に気づくことが多い。 一緒に英語や法律を勉強したりして、互いに知識を高めようとするような、そういう精神的な交際をする相手として、真衣を見て来たことは、なかったような気がするのだ。 真衣は、コンビニに居た。 食べ物を捜していたが、ふと、バスタブの洗剤が切れているのを思い出した。歩き回る。と、コンドームの箱が目に入った。目のふちが、ちょっと赤くなる。高校のときの彼氏を思い出す。 彼氏が自殺してから、３カ月はショックを受けて、食欲すら失くしていた。 半年経ったころ、真衣は、彼氏のうちに行くことにした。せめて、仏前の前に座り、彼氏の冥福を祈りたいと思ったのだ。 お祈りが終わってから、彼氏の母親に、お茶を勧められた。 真衣は前から気になっていたことがあった。 自惚れかもしれないが、真衣は、真衣なりに、『ひょっとして、彼氏は、あの時、わたしがセックスを拒否したことがショックではなかったのかしら？』と悩んでいたのだった…。 真衣は、おそるおそる、彼氏のおかあさんに尋ねていた。 「あの、謙一さん、亡くなる前、何か、悩みごとでもあったんでしょうか？」 おかあさんは、目を伏せられた。 が、おかあさんの声は、真衣には聞こえて来た。 「わたしどもにも、実は、そのわけが、よくわからなくって。確かに、あの子は、なかなか思うように成績が伸びないことに悩んでいました。『Ｚ〇』って、ご存知でしょ？。あの通信教育講座で、添削が返ってくるの。そのたびに成績が上がらない、って、ひとりで、ぶつぶつ、言っていました。でも、うちの人も、わたしも、子どもの成績のことで、とやかく言ったことはないんですよ。志望校も、わたしたちが決めたのではなく、あの子が選んで決めていましたしね。もし考えられるとすれば、うちの人は完璧主義者なんです。そして、あの子も、父親に似て、完璧主義者だったような気がします。少し、わたしが、おおらかに育ててあげればよかったのに、と、今は悔やんでいるんです」 真衣は、彼氏がそんなに成績にこだわっていたなんて、信じられなかった。中間、期末といい、模擬テストが終わっても、いつも自信に満ちた顔をしていた。 真衣はさらに考えていた。 （成績がふるわなかった、ただ、それだけの理由だったのだろうか？）と。 でも、結局、真衣は、（成績のこと、自らの性格のこと、そういうもろもろのことがあって、彼氏は、自らの命を絶ったのだ）と思うことにした。自分のせいで彼氏が自殺したなんて、考えるだけでも苦痛で、そう考え続けていると、本当に吐き気を催すほどだった。だから、自己防衛本能もあって、今まで、彼氏の死は、完ぺき主義という彼氏の持つ性格によるものだと考えてきた…。でも、時々は、（あの時、わたしのからだを求めて来た彼氏の気持ちを、もっとやさしく受け止めてあげればよかったのに）という思いに駆られ、つらく、悲しくなることがある…。 真衣は、コンビニのレジの前に立っていた。 食パン、いちごジャム、野菜のパック…。 と、コンドームの箱が、買い物籠から店員さんの手に持ち上げられていた。真衣は恥ずかしかった。 （でも、わたし、排卵日を記憶しているわけでもないし、基礎体温を測っているわけでもないから、しかたないよ）と、心の中では、居直っている。 真衣は、部屋に戻る。 「お帰りなさい」 眞司は待っていた。 真衣は、コンビニから買って来たものを買い物袋から出して、朝食の準備をしている。 「ここ、シェーバーはないよね」 「あなた、そんなに、伸びてないわよ」 「そうかな？」 真衣にすれば、少しは、髭が伸びていた方がいいと思っている。やはり、彼は、お坊ちゃん顔なのだ、少々、ワイルドさがあってもいい…。 真衣は、コーヒーを飲みながら、彼を見ていた。 彼は、整った顔をしていた。歯も白くて、きれいだった。それに、食事のマナーもわるくない。外見的には、選択をまちがっていない、と真衣は思う。 そして、『あとは、性格だな。もう少し、グイグイと押していく、積極性みたいなものが欲しい』と思いつつ、食パンに手を伸ばしていた。 「高校のとき、彼女はいなかったの？」 真衣が聞いてくる。 「ああ…」 「どうして？」 「だって、俺は、受験勉強と、ガールフレンドと付き合うのと、両方うまく、やれないよ」 「アメリカの子は、ちゃんと、やれてるよ」 「ふーん…」 眞司は自分がちょっと情けなくて、視線を落す。眞司は、アメリカの子がうらやましかった。 自分にはダメだ。好きになったら、のめり込んでしまいそうだ。アメリカの子なら、デートが終わったら、ますます勉強に身が入るのだろう。しかし、俺と来たら、それとは全然ちがう。反って、勉強が手につかないだろう。そんなアメリカを見て来た真衣なら、デートと勉強は、ちゃんと建て分けられるのかもしれない…。 「それに、アメリカの子は、きちんと、目標を持っているわね」 真衣がまっすぐこっちを見て言う。 「ああ、そうなの？」 眞司は、ドギマギする、（オレの目標、って何なんだ？）と思いながら…。 「あなたは、どんな目標を持っているの？」 真衣は、真面目な顔をして、聞いてくる。 これじゃ、まるで、向こうが先生で、オレは生徒じゃないか、と眞司は思う。 が、答えなくては、と思う。 何もない、というんじゃ、彼女のボーイフレンドとしちゃ、失格だろう。 「ともかく、その、公務員試験を受けたいと思う」 「ふーん、地味ねぇ」 「そんなこと、言うなよ。専門試験ではさ、法律だけじゃなく、財政学、経済学、政治学、社会学と、幅広い専門知識が要求されるんだぜ」 「でも、入ってからの仕事は、地味でしょ」 「どうして？」 「だって、全体の奉仕者でしょ。平等にやろうと思ったら、独自性なんて、出せないわよ」 「いいじゃないか。ある一定のレベルまでは、行政側が、保障してやるんだ。それ以上のことは、各個人が、がんばって、切り開いていけばいいんだから」 「そうかな？」 真衣は疑問を呈している。 眞司は、心なしか、元気を失くしている。 実際のところ、自分だって、公務員の仕事は地味だと思っている。本当は、商社に入って、レア・アースみたいな希少価値のある金属を中国だけに頼らず、色んな国から日本に仕入れるような仕事をしてみたい。だけど、俺には、そんな体力も、交渉力も、語学力もないだろう。やはり、俺は、地味な仕事しか向いてない…。 と、うつむいている眞司の耳に、真衣の声が入った。 「わたしは、色々なボランティアをやってみたいな」 「えっ？」 眞司は、一瞬、耳を疑う。 「聞いていなかったの？」 真衣からきつい言葉が返って来る。 「いや、聞いていたよ。ただ、君は、ラ〇天とか、ユ〇クロとか、英語が社内公用語みたいなところに入って、バリバリ、海外から契約を取って来る、キャリア・ウーマンをめざしているような気がしていたからさ」 「わたしは、お金もうけより、もっと、人々に喜んでもらえるような仕事をしたいな」 そんな真衣の声に、眞司は釘付けになる。 眞司は、夢見るような真衣のまなざしに、ポカーンと口を開けて、見惚れている。 （ひょっとして、こいつ、病気や飢えで困っているアフリカなんかに、行くんじゃないだろうか？） 眞司は、そう思いながら、心が凍りつくのを感じている。 （こいつと深く付き合ったら、きっと、別れがつらくなる。そんなつらさに、俺は、耐えられるだろうか？） 眞司は、目の裏側が湿ってくるような感じがした。 「どうしたの？」 「いや、ボランティアなんて、すごいな、と思って」 「どうしてよ」 「だって、俺なんか、公務員志望と言ってもさ、結局、安定志向じゃないの。つまり、俺の場合には、自分さえよければいい、というところがある。例えば、派遣労働者を救おうなんて言いながら、自分は、決まった日に決まった給料をもらい、さらに６月とか１２月には勤勉手当や期末手当をもらって、ぬくぬくとやっているんだからね。その点、ボランティアをやるなんて、すごく、たくましい生き方だと思うよ」 真衣は、眞司のまなざしの中に、真剣さや優しさを見ていた。 （こいつは、ガチガチの公務員じゃないよ。ボランティアなんかに、本気で肩入れしそうな感じがする…） 真衣は、頼りなさそうだけど、眞司の中に、優しさを見たような気がした。 （こんなまなざし、どこかで、見たような） 真衣は、思い出した、高校の時の彼氏の目を。 彼氏も、こんな風に、涙ぐんだような、弱々しい目つきをしたこともあった。あんなにいつもは、自信に満ち満ちていたのに。 （ひょっとしたら、彼氏にも、現実と理想の狭間で、悩んでいたことが、あったのかも…。周囲の期待するものと、自分のやりたいこととが、まったく違っていて…） 真衣は、昔の彼氏に冷たくしたことを思い出し、シュンと、落ち込んだ気分になっていた。 眞司は、気落ちした真衣を見ていた。 （彼女には、きっと、たくましい男性が必要なんだろうな。俺には、そんなたくましさはない。きっと、彼女は、俺に失望したんだ…） 眞司は、涙ぐみそうになって、ふと、ひとさし指で、目をぬぐった。が、親指が、自分の頬に触れる。髭が伸びている。マンションに帰り、髭を剃ってから、大学の講義に出なくては、と思う。 （何もできないなら、そっと、遠くから、真衣のこと、見守るしかない…） 眞司は、そう思いながら、悲しげに、うつむいている真衣に言葉をかけた。 「オレ、そろそろ、お邪魔しなくっちゃ。オレ、１校時目から、授業があるから」 「休めば？」 眞司は、誰がそんなこと言っているのか、と思った。が、この部屋には、目の前の真衣と俺しかいない。 「しかし、そんな、怠け者の僕なんて、君は、好きじゃないだろ？」 「そんなこと、ないよ」 「どうして？」 「あなたは、気持ちの優しい人だから」 眞司は、うれしかった。彼女が誉めてくれたので。 （オレなんか、こいつが、海外のボランティアに行く、なんて言ったら、きっと、見送りするだけしか能がないんだろうな。いや、見送りに行ったら、きっと、泣いてしまって。そんな不細工なことはできないから、きっと、内緒で、ひとりで見送りをすることになるだろう…） 眞司は、黙ってばかりいてもしようがないので、会話をしなくては、と思った。で、真衣に言った。 「優しさ、ばっかりあっても、だめだよ」 「わたしは、優しさがあれば、それだけでいいよ」 真衣の言葉に、眞司はびっくりしている。 （こいつの求めているのは、お金とか、たくましさだとか、そんなのばかりだと思っていたのに…） だが、眞司は、真衣の考えを否定してしようとしていた。 「だけど、やはり、優しさのほかにも、たくましさとか、包容力とか、そういうものが、男には、必要じゃないのかな？」 「じゃ、あなた、わたしのために、たくましくなって…。そして、大きな気持ちで、わたしを包んで…」 真衣に、詰め寄られているような…。 眞司は、考え込んでいる、 （こいつのために、たくましくなれるんだろうか？。こいつが、男の子と親しそうに話をしていても、にこにこして、暖かく、包み込んでやれるんだろうか？） 眞司は、『無理、無理。それは無理だよ』という言葉が、思わず、口を突いて出そうだった。 が、一息、つばとともに、息を飲み込んだ。彼女も失望させるのは、かわいそうな気がしたのだ。 「努力すれば、あるいは…」 と、眞司は答える。 むろん、ちょっと見栄を張ったようで、つらいものがある。努力したって、できないことがある、世の中には…。 「努力してみて」 真衣が言った。 「何とか、なるものよ」 重ねて、真衣が言う。 「そうかな？」 「そうよ」 真衣は、確信に満ちたように言う。 眞司は、おっかなびっくりだ。 が、眞司は、なぜか、真衣を失望させたくなかった。 「オレ、おまえのこと好きだから。だから、強くなりたい。そして、おまえがやることを、じっと見守ってやれるようになりたい…」 眞司は、そう言いながら、内心ではひどく照れている。 真衣は何も言わなかった。 でも、眞司が見るに、真衣は、小さく、頷いたような気がした。 （真衣のために、強くなれるだろうか） 眞司は、そう思いながらも、まるで、例えれば、清水の高い舞台に立ち、下をこわごわ（恐々）とながめているような気分だった。 （落ちたら、死んでしまうだろうな） だが、眞司は、（真衣となら、死んでもいいか）と思う。 眞司は、真衣の目を見ていた。 真衣の目に、茶化しているようなものは全くなかった。 で、言った。 「オレさ、おまえを見ていると、なんか、勇気が出るンだよね。だから、やってみようかな。おまえと付き合ってみようかな、おまえさえ良ければ…」 真衣は、眞司の目を見ていた。 真剣な目だった。そして、すごく澄んでいる。 それに、高校の時の彼氏の目にそっくりだった。 （彼って、純真なのかもしれない…） 昔の彼氏には、何も与えられなかった。それに、もう、彼氏は、この世にはいない。これから先も、彼氏には、何も与えられない。 とすれば、今の、目の前の彼に、与えるしかない…。 真衣は、目を瞑った。 そして、眞司を待った。眞司の勇気を待っていた。 （つづく） |
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| 2010.10.30掲載 |
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