３　子どもが寝ているそばで

「こんばんは」
　見ると、カウンターの中で、美人の女の子が龍次の目の前に立っていた。
「ますみ、と言います」
　カウンターの中の女の子が自己紹介する。

「ああ、僕の妹です」
　マスターが、そばから、照れたように付け加えている。

　マスターは、また、亜里沙先生と話をしていて。
　亜里沙先生は、何かカクテルのようなものを手にしておられて。
　龍次は、しかたがない、マスターの妹の、ますみと言葉を交わす。

　龍次は、ますみとの会話は上の空で。どんどんウィスキーの水割りのみを口にしている。

　と、亜里沙先生の姿が見えない。
　お手洗いにでも行かれたのだろうか？。
　でも、それにしても、戻って来られるのが遅すぎる。
　見ると、マスターが笑っている。
「的場先生、ちょっと、子どもさんを連れに行っておられるんですよ」

「えっ？」
　龍次は絶句している。
（そんな、子どもの話ができるほど、先生は、このマスターと親しいのか？）

　腕時計を見ると、もう午後９時を回っていた。

　おそらく、亜里沙先生は、園長先生の家から慶太君を引き取り、マンションに連れて帰っておられるのだろう…。

　スナックの扉が開いたようだ、後ろを振り向く。亜里沙先生だった。龍次はホッとした。

「ごめんなさい。お待たせしたわね」
「……」
　先生のあやまりの言葉に、龍次は、なかなか素直になれない。

（そうなんだ、ずっと待っていたよ）
　龍次には、そんなことを言葉に出して言えるものではない。

　いや、そんなに待ったような記憶はない。むしろ、マスターと亜里沙先生との仲をあれこれ考えているうちに、何か、あっという間に、時間が経ってしまったような気がする。

「慶太君、大丈夫でした」
　龍次は問う。
「ええ。でも、早く帰らなくては…」

「そうでしょうね」
「すみません」
　先生は、龍次にあやまっている。

「そんなこと、構いませんよ」
　慶太君のことを考えながら、龍次はカウンターの席から立ち上がった。

　亜里沙先生は自分が払うと言ったが、龍次は払わせなかった。龍次が２人分を払った。

　タクシーを拾う。

　これも礼儀と思い、亜里沙先生を先に乗せた。
　龍次は、タクシーの中で、何かを聞きたかった。
　たぶん、マスターとはどういうお付き合いをされているのか？。お店以外でも会っておられるのか？。
　でも、龍次は聞けなかった。
　情けなかった。
　実際、恋人でも、ボーイフレンドでもない自分が、どうして、やきもちなどやけるというのだろう…。

「ここですの」
「えっ？」

　意外に近かった、先生の住んでおられるマンションは。
　龍次は、亜里沙先生をここで降ろしてあげるために、タクシーを一旦、降りることにした。
　と、振り返ってみると、先生が、運転手さんに、お金を払っている。
　自分のアパートは、そんなに遠くはない。でも、歩くとなると、やはりかなりある。このままこのタクシーで帰りたかったのに。それに、料金をここで精算されてしまうことが残念だった。また、拾うと、初乗りになってしまうから。でも、そんなけち臭いことを言い出せない。

　タクシーは行ってしまう。
　が、また、拾えばいい。

「じゃ、先生、今日は、ありがとうございました」
「えっ？」

「……」
「寄っていただきたいわ」

「でも、もう、遅いですから」
「でも…」

「それに、慶太君、あなたのこと、待っているでしょうから」
「慶太は、もう寝ています。きたないところですけど、コーヒーでも飲んで行ってください」
「……」

　龍次は、先生の後を付いて歩いていた。

　もう、あのお店のマスターのことなんか、どうでもよくなっている。
　今、こうして、ふたりだけでいる、そのことが、龍次の胸の中を、幸せな気持ちで一杯にしている。


　テーブルの上に、コーヒーが出された。
　先生が向かいに座られる。
　が、先生が近いのだ。よく見ると、テーブルの幅があまりない。龍次は、緊張した。
　角砂糖だった。
　手が震える。
　ひとつだけ、指でつまんで、コーヒーに入れた。さらさらの粒状のグラニュー糖でなくてよかった。それなら、きっと、手先がふるえて、砂糖の粒をテーブルの上に、いっぱいこぼしていただろう。

「クリープは？」
「いえ、これでいいです」
　龍次は、コーヒーカップの中のコーヒーを見つめていた。

「どうして来てくれなかったんです」
　先生の声が耳に聞こえてきた。

　でも、答えにくい。
　龍次は、少し考えたかった。
　沈黙がある。

　それで、龍次は、時間稼ぎのため、反って、別のことを先生に聞いた。
「あのマスターの店には、よく行かれるのですか？」
「いえ、園長先生と一度だけ。園長先生の小学校教員時代の教え子だったとか、あのマスター」
「ああ、そうだったんですか？」
　龍次は、ひどく安心した。
　コーヒーカップを持ち上げ、コーヒーを飲む。
　おいしかった。
　何か、先生の、もてなしの気持ちが入っているような。

　龍次は、素直な気持ちになれた。
「すみませんでした。とても忙しくて。そして、とても恥ずかしくて…」

「何が恥ずかしいのです？」
　亜里沙先生の口調には、少しきびしいものがある。
　たぶん、ビールだとか、カクテルだとか、そういうアルコールが、かなり入っているせいかもしれない。

「すみません。恥ずかしいというか、もったいないというか、そういう気持ちがして、何となく、行けなかったんです」
　龍次は、手がふるえ、手にしていたコーヒーコップをお皿に戻す。

「もったいない、って、どういう意味ですの？」
　先生の問い詰めるような言葉に、龍次は泣き出しそうになる。

「僕のようなものが、お見舞いに行ったって、どうしようもないというか…」
　龍次は顔を伏せた。

「僕のようなものが、なんて、どういう意味ですか。龍次さんは、とっても優しくて、とっても素敵な人ですよ」
　亜里沙先生の言葉が、しっかりと耳に入っている。
　しかし、龍次は思うのだ。
（優しくても、それが何になる。素敵と言ったって、外観的なもの。俺の内面なんて、ガタガタじゃないか…）

　しかし、龍次は答えた。せっかく、先生が誉めてくれたのだもの。
「ありがとうございます。でも、僕は、ちょっと、先生に、僕の気持ちがわかってしまうことが、怖かったのかもしれません」
　龍次は、顔を上げながら言った。

　先生を見る。
　先生が、びっくりして、瞳を大きく開けておられるような気がした。

　龍次は、少し照れていた。
「いや、俺は、先生が言われるほどには、カッコよく、ないんで」

　実際、そのとおりだ。
　別に、堂々と、花束を抱えて、見舞いに行けばよかったのだ。それを自意識過剰というものだ、相手は、どうのこうの、想ってはいないんだから。

「俺は、きれいな花は、遠くから、ながめていればいいのであって」

「ひどいわ、ひどいわ」
　龍次は涙ぐみそうになっているのに、なぜか、近くにいる先生も、涙声になっているように、龍次には思えた。

「ひどくはないですよ。俺は、ただ、先生がそばにいる、というだけで、幸せな気分になれるし、とても元気が出るんです。ただ、それだけです」

「それだけ、だなんて、ひどい！」
　先生の、その言葉、龍次には理解できない。
　で、龍次は、答えた。
「ひどくはありません。遠くから見守っていたいのです。病院に見舞いには行きませんでした。しかし、オレは、ちゃんと、心の中では、先生が早く直るように、と、祈っていましたよ」
「ひどいわ、龍次さんったら、そんなこと、言ってくれないんだもの」
　先生は怒ったように言う。
　龍次も、お酒が入っているのか、少し、ムッと来る。
「そんなこと、言えるわけがないじゃないですか。オレみたいな経済力も、男らしくもない男が…」

「経済力なんて、どうでもいいわ」
「どうでもよくはありません。好きな人には、普通の暮らしをさせてあげたいのです」

「男らしくない、なんてないわ。十分、男らしいわよ」
「そんなことないです。好きな人の前に出ると、頭が真っ白になって。何を、どう言ったらいいのか、わからなくなる」

「龍次さん、って、そんな人だったの？」
「はい、そうです。そんな男なんです」
「……」

　優柔不断。
　経済力の弱さ。
　今、月２０万円がやっと。
　夏と冬のボーナスを入れても年収で３２０万円。
　普通の企業なら、龍次の年齢で、年収６４０万円は、もらえているだろう…。

　そして、年は４７歳。
　先生より、ひと回りも年が上だ。
　今、慶太君が５歳であったとしたら、１３年後、大学に入る頃には、俺は６０歳になり、早や、勤めを辞めさせられているかもしれない。これから、慶太君に仕送りをしなければならない、という時期に…。

　龍次は、冷めたコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさまでした」
　龍次は、椅子を立った。
　先生は、顔をテーブルの方に伏せ、椅子に座ったままだった。

「では、おやすみなさい」
「待って！」
　先生が顔を上げられた。
　ひとみが濡れている。
（どうしたんだろう？）
　龍次には不可解なのだ。先生は強い人なのだ。涙なんか流す人じゃない。

「オレは帰らなくちゃなりません」
「待っている人もいないくせに！」

「それでも帰らなくてはいけません」
「どうして？」

「慶太君のために。ここで、大声で言い争いでもしたら、慶太君の睡眠の妨げになります」
「そんなこと、関係ないわ。起きたら、また、寝かせつければいいことで」

「そんなものではないです。僕に、慶太君から、あなたを奪う権利なんて、ありません」
「そんなこと、言ってはいないわ。ただ、じっと、わたしのこと、抱いていてくだされば…」

　龍次は、腹が立つ。
（抱いていればいいなんて、俺は、そんなに、紳士じゃない！。何で、そういうことがわからないのだろう？）

「俺は、そういうことができないんです。愛している人としか、そういうことは…」
「じゃ、愛していないのね、わたしのこと…」

「そんなことは言っていません。一般論として、抱き合ったりするのは、愛し合っている者同士がやるべきことじゃないか、と言っているわけです」
「わたしは、龍次さんのこと、好きよ」
「……」
　龍次は、困っている。
（亜里沙先生が、俺みたいな、優柔不断で、貧乏な中年を好きなはずがない…）

　龍次には、何が何だか、わからなくなっている。
（先生が、オレのこと、好きなはずがない…）
（オレは、先生のこと好きだが、愛しているとまで、果たして言えるのか？）
　龍次は気が動転している。

　龍次は、先生が立ち上がり、そばに来て、自分の胸に顔を寄せているのに、やっと気がついている。
（先生は、一体、どうしたというんだろう？）

　先生から、いい匂いがして来る。
　龍次は、あわてている。
「先生、オレは、どうしたらいいのか、わからないんです」
　龍次は、自分が泣きたくなっているのに、気がついた。

「先生、おれは、先生のこと好きだけど、愛しているのか、と言われると、答えられないんです。だって、おれは、おれは、先生のために、死ねないから…」
「いいの。好きだけで十分だわ」

　先生の顔が、龍次の胸にくっついている。
　先生の髪からもいい匂いがして来た。
　龍次は、足が震えた。
　が、それが止められない。
　そして、先生の肩に、手を置いてしまっていた。

「先生、好きなだけでいいんですか？」
「ええ、いいわ」

　龍次は、理性が溶け出しているのを感じている。
　目をつむった。そして、おのれの唇を、先生のくちびるに、そっと重ねて行く。
　重ね合った瞬間、ビリッと電流が唇から脳天に突き抜けた。

　くちびるを重ねていると、龍次は腕まで震えてきた。そして、唇同士が濡れていくのだ。自然と、先生のくちびるが開いていく。その、柔らかな、くちびるを吸う。すると、先生の口も大きく開き、舌先が感じられ、その舌の先を、チューチューと吸っている。股間のモノが硬くなっている。しかし、それにもかかわらず、龍次は、深くキッスをしながら、先生の腰を、わが方へと引き寄せていた。

「苦しいわ」　
　そんな声が聞こえたような気がして、龍次は唇を離す。
　先生の目がとろんとしているような。
　でも、すごく色っぽいというか、セクシーな目つきだ。
　で、先生のお尻に回した手で、先生の腰をさらに引き寄せながら、龍次は問う。
「先生のこと、もっと好きになってもいいですか？」
　亜里沙先生は、小さく頷いたような気がした。
　龍次は、先生を抱き締めている手に力を込め、先生の上半身を上に抱きかかえるようにしながら、再び、先生のやわらかなくちびるを吸い上げて行った。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）