| １ ありえない話 僕は人事部の人間に干されていた。 本社勤務ではなく、地方支店にまわされたのだ。 しかも、地方支店の総務課所属だなんて。 僕自身としたら営業だって、務まると思っているのに…。 しかも、職名は主任だ。 主任というのは課長代理より下の職だ。 総務課長の下の課長代理よりも、さらに下の職になるなんて。 僕の年齢が３０歳であれば、主任という職というのは普通のことかもしれない。 しかし、うちの会社では、早い人なら３６歳ぐらいで地方支店の課長代理になり、その３年後の３９歳では支店の課長職に昇進する。 僕は、すでに４２歳になっているのだ。 総務課長や課長代理が二人で会議に出かけたりすると、主任の僕はビルの最上階に上って行った。 そこには、４面が透明なビニール製の壁で囲われ、天井には換気扇が回って、ビル内には煙が入り込まないようになっている、喫煙室が設置されてあるからだ。 近頃、その喫煙室に、若い女の子が入って来るようになった。 制服の胸のマークを見れば、うちの会社の子ではない。 年の頃は、２３，４というところか。 とすれば、僕とは、年齢がふたまわり以上、ちがう。 もっとも、僕が、時々、横目で見ていると、その子は、たびたび煙草にむせていた。それに、あまりおいしそうにも吸っていなかった。 僕は、やはり、若い女の子だもの、将来、子どもを産まなくてはならないのだから、できれば吸わない方がいいのになぁ、と思っていた。 ある時、その女の子が、僕にライターを貸して欲しい、と言って来た。 それで、僕は、その子にライターを貸してあげたのだった。 「あなた、バツイチなんだって？」 ある日、喫煙室で、そのライターを貸してあげた子が話しかけてきた。室内を見渡すと、たまたま二人だけだったのだ。 「ああ、そうだよ。しかし、そんなうわさ、よく君の会社にも伝わって行くものだね」 僕は、ちょっと、とぼけたように言った。 「そんなんじゃないの。あなたの会社の総務課の島内さんに聞いたの」 「ああ、そうなの」 僕は、そのように言われても、特に気分を害するということはなかった。 うちの総務課の島内という女の人は、３９歳になられる人で、うちの会社ではベテランとして名が売れており、実際、とても仕事ができ、しかも、手際のわるい僕は、時々、手伝ってもらっていたから、島内さんをわるく思うことはなかった。 それに、第一、同じビル内とはいえ、他の会社で、僕よりふたまわりも若い子に、そういうプライベイトなことを知られても、あまり気にならなかったのだ。 「さびしくないですか？」 彼女が聞いて来る。 「まぁ、さびしい時もあるね。でも、自業自得だから」 僕は、素直な気持ちになって答える。 「自業自得？」 「ああ、僕が浮気しちゃったから。妻には何も責任はないよ」 「優しいのね」 「えっ？」 僕は、彼女の言っている意味がわからなかった。実際、僕が妻に優しかったなら離婚されることはなかっただろうから…。 「ねぇ、わたし、最近、彼氏と別れちゃって。夕方になると時間が空いちゃって。で、今度、お食事でも、ご一緒しませんか？」 「えっ？！」 僕は、びっくりして、言葉も出ない。 こんな中年、誰が相手をするんだ、と僕は思っていて。 「何か、わたし、失礼なことを言いました？」 彼女が心配そうに、僕の顔を、下から覗き込んでいる。 が、見ると、可愛い顔をしている。 「いや、僕はずっと君より年上でね…」 「そんなこと、わかっていますよ」 彼女はちょっと怒っているみたいだった。 しかし、僕は、彼女に対して失礼があってはならないと思った。また、この喫煙所で顔を合わせるのだから…。 「まぁ、またね。君にはこれからもっと、いい彼氏ができますよ。もう少しの辛抱ですよ」 僕は、そう言って、まだ煙草が長いのに、灰皿の縁で揉み消し、急いで喫煙室を出た。 何と言うことだろう、僕は、課長や課長補佐が打ち合わせなんかで席を空けると、ともかく、落ち着かなくなるのだった。 はたちやそこらの若い者でもないのに。 すでに４０の坂を超している。 もっと仕事に集中してもいいはずだ。 しかし、ともかく、１本だけ吸えば、落ち着く。 最上階まで駆け上がり、喫煙室で吸い、又、駆け下りてくれば、３分しかかからないかもしれない。 それは、通常の大人が、大のトイレにかかる時間とそんなにかわらないはずだ…。 僕は、煙草とライターがズボンのポケットに入っているのを手で確かめると、席を立ち、事務室を出て、階段を駆け上った、階段の上の方も見ずに。 僕は、自分の頭が、誰かの背中にコツンと当たったのを感じた。 「あっ、すみません！」 顔を上げると、女の子だった。 よく見ると、いつも近頃、喫煙室で会う、あの若い…。 「ごめん、ちょっと急いでいたもので、前を見ていなかったよ」 僕は、頭を掻きながら、あやまっていた。 「わるいと思っている？」 ふたりで階段を登りながら、彼女が僕に言った。 「むろん。何だか、たびたび、席を空けるのがわるくてね。早く吸って、早く席に戻らなくてはと思っていたものだから」 「この小心者！」 僕は、頭を上げて、キョロキョロ、階段の上の方や下の方を、見上げたり見下げたりしていた。 （誰だ、生意気なことを言うやつは！） しかし、階段には、僕と彼女しかいなかった。 （ふたまわりも年下のくせに、生意気なやつだな） と僕は思いつつも、何だか気の強そうな女の子で、気の弱い僕には興味がそそられ、ちょっと、彼女に絡んでみたくなった。 「そりゃ、わるいと思っていますよ。僕の不注意で、あなたにぶつかってしまったんですから。どうしたら、許していただけますか？」 返事はなかった。 ふたりして、喫煙室に入った。 喫煙室には、僕たち以外に人が居なかった。 ふたりして灰皿が嵌め込んであるテーブルの前に、並んで立っていた。 彼女は、僕の左側にいた。 彼女が、煙草を口に加えた。 僕は、黙って、彼女の煙草に火を点けた。 別に、こんなことで、ぶつかったことをチャラにしてもらおうとは思わなかったが。 「最近ね、あまり食欲ないんだ、わたし。だから、どこかへ連れて行ってくれないかな。おいしいお店に、ね」 彼女の声が、僕の左の耳に入った。 僕は、彼女の方を見ずに言った。 「僕は、最近、イタリア料理に嵌っていてね。君は、ビッツァとかパスタはきらいかい？」 「別に、いいよ。で、デザートには何かある？」 彼女がこっちを向いている。 「そうだね、そのお店のジェラート（＝アイスクリーム）は、けっこう、おいしいと思うけど」 僕は、彼女の方を見ながら言った。 彼女の目がちょっと光っている。 「じゃ、今日の夕方にね。で、あなたのケータイ、貸して」 僕は、無邪気にも、彼女に自分のケータイを貸した。 彼女は自分のケータイと、僕のケータイとをくっつけた。 アドレスを注入したらしい。 そして、僕はといえば、手帳を取り出し、白いページのところに、イタリア料理店近くの地図を書き、それをちぎって、彼女に渡した。 「ここ、わかるかな？」 「わたし、ここならわかるよ。対面の白石屋デパートには、けっこう行ってるから」 「そうか、それなら、よかった。そこのお店で、６時半に待ち合わせる、というのはどう？」 「いいわ」 彼女はきっかり時間どおりに来た。 むろん、僕は、おわびのつもりでいるので、店には先に到着していたのだった。 「何か、飲む？」 僕は彼女に聞いた。 「ここ、ワイン、あるかしら？」 と、彼女は、僕に聞いてきた。 「イタリアワインがあるんだけど」 「ああ、そうなんだ。わたし、フランスワインしか知らなかったわ」 「それじゃ、フラスカーティというワインにしたらどうかな？」 「どうして？」 「マルヴァジーアという白ぶどうを使ったワインでね、甘い香りと、穏やかな酸味が特徴なんだ。君にはぴったりと思うから」 「それなら、そうしましょう」 僕たちは乾杯をした。たぶん、ふたりの初デイトに。 前菜は白身魚のカルパッチョだった。 白身魚である真鯛の、薄切りにした刺身の上に、乳化させたトマトソースが掛けてあった。 「ねぇ、上に散らしてある、この葉っぱは、何かしら？」 「たぶん、細切りにした、バジルの葉だと思うよ」 トマトソースとはいえ、セロリ、ニンニクやワインビネガーの匂いがして、大人の香りになっているような気が僕にはした。 「ねぇ、どうして、離婚したの？。アッチの方はどうして処理しているの？」 彼女の質問に、僕はむせた。 白身魚に掛けてあるソースには、レモン汁も振ってあるらしい。 「若い頃の僕は、けっこう出世欲が強くてね、家庭を顧みることがなかったんだろうね」 「そうなんだ。今はどうなの？」 「出世はあきらめている、というか、あきらめざるを得ないというか」 「どうして？」 「誰もいないじゃないか。がんばるための相手がさ。妻も子どもも…」 「そうなんだ。で、あっちの方は？」 「そうだね。自分で処理するしかないね」 「フーゾクには行かないの？」 「そうだね、外食したりすると、けっこう、食費にお金もかかるし。フーゾクに行くと、ちょっと、もったいない気がして」 「そうなんだ」 プリモピアット（１番目の皿）として、ペペロンチーノのスパゲッティーが出された。 赤唐辛子がピリッと効いている。それにニンニクの香りがする。上には、イタリアンパセリが散らしてあった。 僕は、彼女が赤唐辛子の辛さが気に入るかどうか、ちょっと心配だった。 それで訊いてみる。 「どう、お味は？」 「少し辛いけど、白ワインが消してくれそうだわ」 「ああ、それなら、よかった」 「でも、このワイン、マスカットみたいな甘さがあって、スゴク進みそうだわ」 彼女がグラスを空けている。 値段の高いワインではないが、僕は心配になる。 「あまり、飲みすぎないでね」 「どうして？」 「だって、君はまだ若いもの。からだを大事にしなくては」 「若くないよ」 「若いさ」 「わたし、３２よ」 「えっ！？」 僕は驚いていた。２３ぐらいにしか見えなかったから。 「何で、そんなに、じろじろ、見るのよ」 「ごめん。君は若くて、僕より２０歳くらい、下だと思っていたものだから」 「馬鹿みたい！」 僕は動揺していた。 彼女とは、親子ほども年が違うと思っていて。保護者になったようなつもりで、食事に誘ったのに。 １０歳ぐらいの差なら、何とか、恋人同士にでもありそうな開きではなかろうか…。 （困ったことになったな） 僕は、それまで、イタリアンワインをちびちびとやっていたのに、何だか急にグラスを手にし、キューッと飲んでしまっていた。 グラスを空け、 「はぁーっ」 と、僕は思わず、ためいきを漏らしていた。 「どうしたの？」 「君なんか、誘うんじゃなかったよ」 「ごめんなさい。こんなに年を食っていて…」 「いや、そういうわけじゃない」 「でも、あなたのせいじゃないから。わたしの方が、むしろ、あなたと食事を一緒にしたかったから」 「どうして？」 「わたしね、最近、彼氏と別れたの。だから、少し、さみしくて」 「で、誰でもよかった？」 僕は、深刻な雰囲気にならないよう、茶化した。 「そうなの。寂しさを紛らわせるためなら、誰でもよかったの」 彼女が僕を見つめながら言った。 その目を僕がしっかり見つめると、少しうるんでいた。 （ああ、やっぱり、つまらないことをしてしまった…） 僕は、再び、彼女を食事に誘ったことを悔やんでいた。 （つづく） |
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| 2011.9.11掲載 |
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