| １０ 妓楼以外の所で会う 祐介は、やはり妓楼に上がっていた。 むろん、指名する芸者は、お紺であった。 お紺に、酒を注いでもらって飲む。 至福の時である。 しかし、なかなか、 『今夜は泊まって行くよ』 と口説けない。 たぶん、気恥ずかしいのだろう。 それに、こんなにお紺と親密になり、お紺と寝て、お紺に絶頂感を味合わせることができないとなると、これは男として面目が立たないことになる。 実際、祐介はお紺に惚れ過ぎている。 惚れ過ぎている女とヤレば、やはり早漏気味にはなる。 お紺がイカないうちに、自分がイッテしまうということが怖かった…。 祐介は、お紺のくちびるを見ている。 吸いつきたいくらいだ。 たぶん、女が好き、お紺が好きなんだと思う。 「おい、お紺、今度さ、活動写真を見に行かないか？」 「いいわね、どこ？」 「浅草。けっこう、あそこはさ、活動写真の常設館が建ち並んでいるんだ」 「うん。じゃ、来週の月曜日はどうかしら？」 「むろん、僕は、君の都合に合わせるさ」 祐介は、そう言って、うれしさを隠すために、盃を飲み干した。 「ねぇ、それで、一緒に飯でも食おうよ」 「いいわね。何をごちそうしてくれるの？」 「牛鍋はどうだい？」 「いいわ」 「じゃ、浅草の『和田屋』で待ってるよ。１２時、正午にね」 「わかったわ」 お紺は、楽しそうに笑っている。 誘われたのがうれしいのだろうか。 祐介もまんざらではない。 （こいつ、やはり、俺のこと、好きかもしれない） 祐介は、今にもお紺を抱き寄せ、口を吸おうと思っていた。 「ねぇ、わるいけど、次に、お客が入っているの」 「えっ！」 祐介にすれば、出鼻をくじかれたようなものだ。 「ことわれないのか？」 「馬鹿ねぇ。そんなことできるわけがないでしょ」 「まぁ、そうだな…」 祐介の声の調子が落ちる。 （身請けさえできれば…） しかし、それは無理というものだ。 叔母たちが猛反対する。 大番頭も、きっと大反対だろう。 「行かしてやるからさ…」 「何よ」 「行かしてやるからさ、ちょっとだけ…」 「ちょっとだけ、って、何よ」 「ちょっとだけ…」 「だから、何よ」 「その、ちょっとだけ、口を吸わせてくれない？」 「馬鹿ねぇ」 お紺は立ち上がる。 祐介は、ふてくされる。 と、お紺が、また、座って来た。 「ちょっとだけよ」 「ああ、ちょっとだけでいいよ」 祐介は、お紺を抱き寄せた。 そして、お紺の口びるを吸った。 甘かった。 たぶん、お紺のことが好きなんだろう。 （この甘い味がずっと続いて欲しい） 「離したくない」 祐介は真剣な顔で言った。 「馬鹿ねぇ」 お紺は笑っていた。 「行かないで欲しい」 「馬鹿ねぇ、そんなこと、できるわけがないでしょ」 「君が、あっちの部屋に行って、直接、ことわってくればいいだろう」 「そんなわけには行かないわよ」 お紺は、身なりをつくろって（身づくろいをして）、立ち上がる。 「ああ…」 祐介は、思わず、はしたないというか、子どもみたいな、甘ったれた声を出す。 が、お紺のやつは、振り返りもせず、部屋を出て行った。 （あいつは、冷たいやつだ。所詮、商売女なんや…） 祐介は、肩をがっくり落とし、ため息をついている。 （しかし、俺にしても情けないところがある。身請けしようとしないのだから。お紺ばかりを責められない…） 祐介は席を立った。 ともかく、お紺と約束を取り付けられたのだ。 来週月曜日に会って、活動写真を見に行ける…。 まるで、子どもがお祭りの日を楽しみに待つような気分だ。 祐介は、月曜日、なんと、５時には目を覚ましていた。 いつもは７時。いつもより２時間も早い。 むかし、祭りの日、父親と出かけたものだ。 父は、母とちがって、露店では俺に色々な物を買ってくれた。 父に手を取られ、出かけるのがうれしかった。 祐介は朝食もそこそこに、散髪に行く。 そして、パーラーに行って、バナナジュースを飲む。 何だか、しかし、落ち着かない。 懐中時計を出す。 何ということだ。今日はえらく時間が進まない。 祐介は、気が急（せ）くばかりだった。 バナナジュースは、まだグラスに半分も残っているというのに、そのまま席を立ち、パーラーの店を出た。 牛鍋屋に着いたのは、１１時３０分。 お紺との約束の時間より３０分も早かった。 ２階の部屋に上がる。 が、お紺はなかなか現れない。 約束の１２時になった。 ５分おきに、懐中時計を見る祐介。 とうとう、階段を下り、牛鍋屋の帳場で働いている人に尋ねる。 「ちょっと、物を尋ねますが。わたしは篠原というものですがね。お紺という名の女の人から、何か、電話でもなかったですかね？」 「いえ、そのような電話はございませんでしたが…」 「ああ、そうかい。お邪魔をしたね」 祐介は、しょんぼりとして、また、階段をあがって部屋に戻る。 １２時半になった。 「お連れさまは、まだでございますか？」 「ああ、そうなんだが。まあ、ともかく、そのうちやって来るだろうから。もうはじめてやってくださいな」 店の女の人が、鉄鍋に、タレを入れ、おいしそうな牛肉を広げつつ、煮込んでいる。 そして、大根や白菜、長ネギなど、野菜も入れ込んでいる。実に手際がいい。 祐介は、器の中の卵を掻き混ぜ、牛すきを食べはじめた。 普段はおいしいのに。 それに、今日は、なぜか、牛すきが咽喉を通り過ぎてくれない。 ビールを頼む。 そのビールで、無理矢理、牛すきを胃の腑に流し込む。 祐介は憂鬱だった。 それに、牛鍋屋の店の人には悪いことをしてしまった。何しろ、肉にしろ、野菜にしろ大変なこと、残してしまったのだ。 牛鍋屋を出たのは、午後の１時半。 家に帰るわけにも行かず、ひとりで活動写真館に向かう。 祐介は、活動写真をほとんど見ていない。 （お紺のやつ、どうしたんだろう？） （牛鍋屋の『和田屋』って、有名店なのだ。『急用ができたから、行けなくなった』とか電話ぐらい、お店の方に入れてくれたっていいだろうに…） 祐介は、あれこれ考えながら、目は前を向いているものの、活動写真の中味は見ないまま、怒り心頭に達していた。 （もう、あいつは、決して座敷に呼んでやらない！） （あいつとは、もうおさらばだ！） 怒りがおさまると、祐介は、ひどく眠たくなった。 何しろ、いい年をしながら、まるで露店に行って物を買ってもらうのを楽しみにしている子どもみたいに、早起きをしてしまったものだから。 活動写真館を出た。 陽は傾きかけている。 祐介の足は、『皆実』という妓楼に向かっている。 本当なら、いつも出かける『松前』という妓楼に行き、お紺を呼んでもらうのだが。 （お紺のやつ、ひょっとしたら、なじみの客と、どこか温泉にでも行ったんじゃあるまいか？） 袖にされた芸者を呼ぶほど、俺はお人よしではない、と祐介は祐介なりに考えての『皆実』行きではある。 歩きながらも、ムシャクシャする。 腹が立つのだ。 （まったく、いいかげんな女だ、お紺というやつは…） 今夜は、泊まりだ、と祐介は思う。 『皆実』の妓楼に上がり、前に呼んだことのある、お澄という芸者を呼んでもらうことにしよう、と祐介は思う。 それにしても、父親もよく芸者遊びをしていた、と叔母たちから聞いたことがある。 祐介は、まだ中学生だというのに。 叔母たちは、祐介に向かって、 『あんたのおとうさんは、血の気が多くてね。おまえさんも気をつけなさいよ』 と、よく言っていたものだ。 （俺は、やはり父親の血を引き継いでいるらしい。こんなにも俺が好色だとは思わなかった…） 「やっぱり、ここへ来たわね」 猫背になって歩いていた祐介は、女の声に思わず、顔を上げた。 なんと、お紺が目の前にいるではないか。 不思議なこともあるものだ。 お紺の肩先の向こうには、『皆実』という妓楼の看板がある。ここは、お紺が行きつけの妓楼『松前』ではないはずなのに。 「どうして？」 祐介は、目の前の女に、不審気に尋ねる。 「あんたの行動はお見通しよ」 女の言葉に、祐介はカァーッとなる。 「何で、来なかったんだ！」 祐介は大きな声を出し、顔が真っ赤になるのがわかった。 「ごめんなさい。ちょっと用事ができたものだから」 「そんな言い訳なんか、するな！」 「ごめんなさい」 お紺が頭をちょっと下げた。 しかし、何と言う、愁傷そうな声なんだ。 祐介は、女に腕を取られている。 「ここじゃなくて、松前に行きましょうよ」 女が男の腕をゆすりながら、誘っている。 「俺は、今日は、おまえと話したくない」 祐介は、そんなことを言いながらも、お紺の、いい匂いが鼻について、何やら気持ちが動揺している。それに、ともかくお紺の姿が見られただけで、ひどく安心してしまっている。 「近くに、車屋さんがあるから、そこまで、ともかく行きましょう」 お紺が優しげに、そんなことを言うのだ。 「俺は、今日は、松前になんか行きたくない。ここの皆実に上がりたいんだ」 しかし、何とも、祐介の口ぶりというのが、弱々しい。 「そこに上がって、誰を呼ぶの」 「誰って…」 祐介は口ごもる。 まさか、お澄だなんて、お紺の前で言えるはずもない。 「特に、女は誰だと、決めているわけじゃないが…」 祐介は言葉をにごす。 「わたしじゃだめなの？」 お紺の目が、真剣そうに、純情そうに、祐介には見える。 （演技だ、演技に決まっている。騙されてはならんぞ） 祐介は、しかし、女にゆすられている腕を引き離そうとはしない。 とうとう、女に引っ張られながら、女の後に付き従っている。 車は空いていた。 それで、その人力車に乗る。 女は、片手を祐介の膝の上に置いている。 その手のぬくもりがいい。 祐介は、愚かにも、その女の手の上に、自分の手を重ねていた。 「ずっと待っていたのに…」 祐介の声は、まるで涙ぐんでいそうな声だった。 「ごめんなさい。夕べ、急に田舎に帰っていたの。でも、けさ、あわてて、バスに乗ったのだけれど、間に合わなくて…」 祐介は照れて、女の顔は見られない。 でも、祐介には、お紺の声も、何だか、涙ぐんでいそうに思えてきた。 だから、祐介は、すでに心の内では、機嫌が直っているのだ。 「でもさ、連絡ぐらい、くれればいいのに…」 という祐介の声は、もはや、女を責めている口調では決してない。 明らかに、女に甘えている声であった。 （つづく） |
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| 2011.8.20掲載 |
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