２　お紺という女と口論になる

　祐介は、女将と元の部屋に戻った。

　ふすまが開けられる。
　内に、女が居た。
　女がこちらを振り向く。
　何と、あの庭の東屋で、ひとり寂しそうに、ぽつねんと椅子に座っていた女だった。

「あら、お紺ちゃん、ここに居たのね」
「あっ、おかみさん」

「お紺ちゃん、お客さまを、お連れしたわよ。あとは、よろしくね」
　女将は、さっさと出て行く。

　祐介は突っ立ったまま、困っていた。
　いい女なのだ。
　それに向こうは覚えていないにしろ、少し前には、口を吸わせてもらったことがあるのだ。とてもやわらかいくちびるだった。それに、何か、芳しい、お香の匂いがしたように思えるのだ。

「こちらにお座りになりませんこと」
　祐介は、女に言われるままに、動く。が、われながら、ぎこちない動きだと思う。
　お膳の前までは来たが、まだ、突っ立っている。座ってもいいものか、迷って。

「さぁ、お座りになって」
　女は、奇妙に愛想がいい。

「お飲みになりませんこと？。さっき、熱いのをもらって来たばかりなんですのよ」
　お銚子を手にしながら、女が言う。
　素敵な笑顔だ。
「ああ」
　祐介は、やっと決心した。
　座布団の上にあぐらをかいて座り、お膳の上から盃を取って、女の方に手を伸ばす。その手がちょっとふるえている。

（構うものか。こんないい女なんだもの、手が震えるのはあたりまえだ）
　祐介は、女に注がれた盃の酒を、一気に飲み干した。

「君もやるかい？」
「ええ」
　祐介は、お紺という女にお酒を注いでやった。
　お紺の、飲みっぷりは、よかった。
　お酒は、相当、強そうに見える。
　良江より、年は４，５年は、上のようだ。

　女から、いい匂いがしてきた。
　祐介は、このまま、この女と一夜を過ごしたい気持ちになっている。
　しかし、たぶん、もう少ししたら、良江がここに戻って来るだろう。そして、この女は自分の役目は終わったとばかり、さっさと、この部屋を出て行くのだろう。

「お客さんは、良江ちゃんのファンなのよね」
　女が言う。
「ああ、まぁ、そうだ」
　祐介は答える。

「良江ちゃん、って、かわいいから」
「ああ、まぁ、そうだね」

「で、良江ちゃん、何か、お客さんに、話をしましたか？」
「何を、だね」
「いえ、何でもありませんわ」
　女は、顔を伏せた。

（良江のやつ、何か、俺に隠しているんだろうか？）

　しかし、良江はなかなか、この部屋に戻って来なかった。
　それに、何だか、今夜は、目の前の女を口説きそうで怖かった。

「俺、今夜は、失礼しようかな、これで」
「あらっ、それではわるいわ。良江ちゃんにも、お客さんにも…」

「いや、大丈夫だ。それに、良江も、俺には気兼ねをせず、その、今ついているお客さんに、お相手ができるだろうから…」
「お客さんって、優しいのね」

「そうかな？」
「そうだと思いますわ」

　祐介は、目の前の女に、言葉に出して、言いたかった。
（『本当は、おれ、あんたに付き合って欲しいんだけどね…』

　しかし、そんなことは言えない。
　やはり、今夜は、良江と付き合うと思って、この妓楼に上がっているのだ。いくらなんでも、良江に対して、わるいだろう。それに、この女に、（この人は、何と言う、浮気者なんだろう）と思われたくない。

「俺さ、おなかが空いてきたし。ここを出て、寿司でも食って帰るわ。あんたさ、良江に会ったら、そう言ってくれない？」
「そうですか？。もう少ししたら、良江ちゃん、ここに戻って来ると思いますけど」

　このいい女と、別れたくない。
　それで、祐介は、ずるずると居座っている。
　
　と、女が立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
　そのとき、「あっ！」と祐介は、いかにも哀れっぽい声を出してしまう。行かないで欲しかったのだ。が、酔っているのに、顔が赤くなったのを感じる。

　女は、しかし、部屋を出て行ってしまった。
　祐介は、しょんぼりする。
　待つでもなく待っていて、少し時間が過ぎていく。が、そのとき、女が戻ってきた、お銚子（とっくり）を何本も持って。

「ああっ、戻ってくれたんだ」
　祐介が、高くて、甘えたような声を上げる。
　いい年をして、こんな甘ったるい声を出して。
　普通なら、赤面ものだ。
　しかし、もう、顔は赤くならない。
　なぜだろう。たぶん、この女が戻って来てくれて、本当にうれしかったのだろう、祐介には。

「はい、お客さん、どうぞ」
　女が酒を注いでくれる。
「一応さ、おれ、篠原というんだけど」
　祐介は、ちょっと照れたように、女に抗議口調で言った。
「あら、そうでしたの。わたし、あなたのこと、しぃさんとばかりしか、思っていませんでしたわ」
「うん？」
　祐介は、この女の正体がつかめない。急に忘れっぽくなったり、急に何かを思い出したり。
　が、今の祐介には、そのような女のくせなど、あまり気にならなかった。今、気になるのは、さっき急に部屋に飛び込んで来た時のように、口吸いをさせてくれるかどうかだけだった。
　もっとも、祐介には、他にも気になることはあった。
　もし、ここで、この女を口説いていて、そこに、良江が戻って来たら、どうなるかと、気がかりなのだ。
　それで、女に、カマ（鎌）を、掛けてみる。

「良江のところのお客さんは、まだ、帰らないのかな？」
「あら、わたし、言いませんでした？」

「何を？」
「良江ちゃん、また、別のおなじみさんが、ついちゃったの」
「えっ、そうなのか！」
　祐介は驚く。
　そんなことは、早く、言って欲しいものだ。
　それで、祐介はふて腐れる。
「そうならそうと、言ってくれればいいのに」

「わたしでは、良江ちゃんの代わりが務まらないのかしら？」
「そんなことは、言っていないが」
　祐介は、勝手に、盃をかたむける。

　そして、先ほど、この目の前の女が、
『それで、良江ちゃんは、何かお客さんに話をしませんでしたの？』
　と言ったことが、妙に気になりはじめる。

　そういえば、近頃、良江とは、妙な会話をしたことがある、と、祐介は思い起こしていた。

『しぃさん、わたし、もう、ここ、辞めたくなったわ』
『どうしてよ』
『だって、もう、落ち着きたいの』
『おまえ、まだ、若いんだから、がんばれよ。おまえがここを辞めたら、俺は寂しくなってしまうよ』
『だったら、しぃさん、わたしのこと、身請けしてくれないかしら？』
『馬鹿を言え。俺みたいな道楽者のところに来た日にゃ、苦労するばっかりだ。いいことなんて、ひとつもない…』

　祐介は、以上のような、このあいだの良江とのやり取りを思い出しているのだ。
　すると、目の前の、お紺という女が言った。
「しぃさん、どうしたの？」
「いや、何でもない」
「ううん、気になっているんだわ、しぃさん。良江ちゃんのことが…」

　女が、こっちをにらんでいる。
　色っぽいというより、にゃっと笑っていて、俺が知っていないことを、この女は知っていそうな感じだ。それで祐介は聞く。
「近頃、良江のやつ、様子がおかしかったんだ。君は良江とは親しいようだが、良江に何か、あったんだろうか？」
「……」
「いや、しゃべりたくないなら、それでいいから」
　祐介は、盃を干す。

「良江ちゃん、何か、あなたに言っていたはずよ」
「……」
　祐介にはわからない。

「しぃさんに、身請けの話をしたけど、真剣に聞いてもらえなかった、って、良江ちゃんは悲しそうに、わたしには言っていたけど…」
「えっ！。あいつに、そんな話があるの？」
「そうよ。質屋をやっている、おっさん。年は４０を超えているわ」
「そうか、そうなのか」
　祐介は悲しくなる。
　良江のやつ、ひょっとしたら、その質屋の旦那の２号さんになるか、あるいは、よくて、その質屋の旦那の後添い（再婚の相手）になるのかもしれないな。４０を超えて初婚ということはないだろうから…。

　暗い表情をした祐介に、お紺という女が、追い討ちをかけるように言う。
「あなたが、良江ちゃんを身請けすればよかったのよ」

「そんな無茶を言うなよ」
「でも、良江ちゃんは、あなたに期待していたわよ」

「馬鹿なことを」
「どうして、あなた、身請けできないの。ちゃんとした呉服屋をやっているんでしょ」

　祐介は驚いている。
　この女、俺のこと、よく知っているな、と。
　たぶん、良江と、この女は親しく、良江が俺のことを、この女にペラペラとしゃべったのであろう。

「しかし、なあ、俺のおふくろは大変な病（やまい）で寝たっきりなんだ。そして、口やかましい叔母が４人もいる。そんなところに嫁に来た、って、あいつが幸せになれるはずがない」
「そんな気の弱いことを。良江ちゃんが、かわいそうだわ」

「そんなことを言うな。おまえだって、こういう商売をしているんだから、わかるだろう。好きだということと、幸せにしてやれる、ということとは、別の問題だって…」
「でも、結局、あんたは、弱虫、ってことよ」
「ああ、弱虫でけっこう！」
　祐介は、やけっぱちになって、とっくりを取り上げると、そのまま、口に付け、一気に、酒を、胃の腑の中にまで、ぶちまけていた…。


「あなた、起きて、起きて」
　祐介は目を開ける。
　女がいた。
　目をこする。
　お紺という女だった。

「もう、朝よ。ここを出なくては。起きて、さぁ、早く」
　祐介は起き上がる。
　頭痛が少しする。二日酔いなのだろう。

　祐介は身づくろいをし、着ている着物の襟を正す。
　どうやら、深酒したらしい。
　この女と言い争ったという記憶が少しある。
　そして、それから先のことが、あまり記憶にない。
　ただ、昨夜、この女とねんごろにはなってはいないようだ。もし、この女とヤッていれば、このち〇ぽの先が、精液とか女の淫液でヌルヌルになっているだろうが、そうではないからだ。

　ボーッとしていると、女に、洗面所に連れて行かれる。そこで、歯磨きをさせられる。そして、目の前に洗面器が出され、顔を洗わされる。女が、それでも手拭（てぬぐい）を渡してくれた。

「さぁ、出ましょうね、ここを」
　女に連れられて、妓楼を出る。
　が、妓楼を出たのに、女が手を離さないのだ。
　そのまま、道を歩く。人に出会う。恥ずかしくて、つい、顔を伏せてしまう。

「さぁ、ここよ」
　そこは、一軒屋であった。
　祐介は、そこに上がる。
「ちょっと、待ってて。朝ごはんの支度をするから」
「えっ！？」
　祐介には、皆目、わからない。
　女が、なぜ、こうも、自分に対して親切にしてくれるのか？。

　女が卓袱台（座り食卓）に出してくれたお茶を飲みながら、祐介は考え込む。
　女は、台所に立って、お櫃（ひつ）の中から、冷えたご飯を鉄鍋に移して、お粥をつくったり、味噌汁を作ったりしているようだ。

　と、祐介は、昨夜のことを断片的に思い出していた。
（そうだ、俺は、この女を、ゆうべ、口説いたようだ）
　
　この女が、しきりに俺のことを薄情者だと非難するのだ。どうも、女の言い分では、その理由というのが、俺が良江に、つれない仕打ちをしている、ということらしいのだ。で、俺としては、成り行き上、良江のことはそんなに好きじゃなかった、と口走ることになってしまう。そして、目の前の女を口説き、おまえの方がずっといい女だから、キッスをさせろ、と迫ったような気がする。そして、その女に、頬をぶたれたような気がする。

　女が卓袱台に、お粥や煮物や味噌汁を置いている。そして、座ってきた。
「はい、食べましょう」
「どうして？」
　祐介は不思議そうな顔をして女に聞く。

「だって、あなた、朝早くから、グーグー、おなかを鳴らしていたから」
「あっ、そうなの」
「そうよ。わたし、あなたのおなかの鳴き声で、目が覚めたんだから…」
「そうか、そりゃ、わるかったね」
　祐介は、心底、その女にあやまった。

　が、現金なものである。祐介は、おなかがやはり空いていたので、食卓に出されたものに、さっそく箸をつけ、すべてのものをたいらげた。
「ありがとう、おいしかったよ」

　女が笑っている。
　素敵な笑顔だ。
　夕べ、俺がこの女に言い寄ったのも、まんざら、いいかげんな気持ちではなかったような気がする。けっこう真剣な気持ちで口説いたのかもしれない…。

　が、それにしても、この女がこんなに親切にしてくれるのがわからない。確か、言い寄った時、この女には頬をぶたれたんだから。それに、それはかなり痛かったと思い出される…。

　さてもさても、仲の良い、妹分（いもうと・ぶん）である良江の想い人だから、それでも親切にしてくれるのであろうか？。

　祐介にすれば、もう自分の心は、良江を離れ、完全に、この目の前のお紺という女に移っている、という気がした。
　祐介は、破れかぶれの気持ちで言った。
「俺、また、おまえに会いに、あの妓楼に行ってもいいかな？」

　と、女が困ったような顔をしている。
　そして、女が、かわいい口を開いた。
「良江ちゃんのこと、どうするの？」

「だからさ、俺は、良江のこと、何とも思っていないわけで。俺が好きなのは、あんたなんだから」
「この馬鹿！」
　祐介は、女に、拳骨で、頭を殴られていた。
　痛くて、涙が出そうだ。

　が、ともかく、祐介は自分が情けなくなった。
　今、わが国は大変なときなのだ。日本の陸軍が中国大陸に進出して、ヨーロッパの列強やアメリカに、目の敵にされている。
　そして、我が家といえば、大黒柱だった父親が死に、店の経営も大変なことになっている。
　こんな非常時に、俺ときたら、女とヤルことしか考えていない。

『非国民！』、『どら息子！』
　そんな言葉が、祐介の頭の中を駆け巡っていた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）