３　見合いを勝手にキャンセル

　祐介は、自分の部屋で、ゴロ寝をしている。
　今日は、日曜日で、店は休みだ。
　休みなのだが、落ち着かない。心が、ざわざわしているのだ。

（まずい、マズイ…）
　とうとう、叔母の見合いの話がことわれなかったのだ。

（何という、優柔不断な男なんだろう、俺ってやつは）
　今日が、その見合いの日なのだ。

　向こうさんと、料亭で昼ごはんを食べる、ということになっている。
　午前１１時には、その料亭に着いていなくてはならない。
　叔母夫婦のことだ、その定刻の前には、来ているだろう。
　とすれば、もうそろそろ、出かけなくては。

　祐介は、表の店の玄関からではなく、裏口の方から出た、こっそりと。
　番頭に見つからないように。
　番頭のやつは、日曜日といえども、店の帳場に座って、帳簿の整理をしていることがある。

　しばらく行くと、市電が走っている大通りに出た。
　ちょうど市電が、近くの停車場に入りつつある。
　祐介は停車場に急ぐ。そして飛び乗る。が、乗ったところで、約束の料亭とは全く反対の方向の電車に乗ったことに気がついた。

（取り返しがつかないことになっている）
　祐介は、座席に座りながら、頭を抱えている。

　と、目を瞑っているのに、目の前に、鉢巻をした母が現れている。
『さぁ、覚悟を決めなさい』
　母は、すでに、僕の介錯をする気でいる。
　実際、この場に至って、とんずらする（＝ずらかる）なんて、男の風上（かざかみ）にも置けない。

　俺は、仕方なく座った。目の前には、三方が置かれている。
　その三方には白い紙が置かれ、白い紙の上には、柄を外した脇差が載せてある。
（多少は、自分でおなかを切らなくては、武士の面目がたたないかもしれないな…）
　それで、俺は、その脇差を手に取ろうとする。
（しかし、首をもっと伸ばさなくては、母親が切りにくいかもしれない）
　と思う。
　そのため、俺は、背筋を伸ばし、首を上へと引き上げようとする。
　がしかし、
（えっ！、俺という存在が、この世からいなくなっちゃうのか！）
　急に、恐ろしくなる。
（俺は、まだ、死にたくない！）
　俺は、両手を首の後ろに伸ばし、首をかばいながら、前につんのめって行った…。

　俺は、思わず、顔を上げた。
　電車の中のお客さんが、こっちを向いて怪訝そうな顔をしている。ひょっとしたら、俺は、さっき、『まだ、死にたくない！』なんて、大声を出したのかもしれない。

　路面電車が止まる。
　祐介は、あわてて立ち上がると、車掌にお金を渡し、釣り銭も受け取らず、飛び降りた…。

　祐介は市電の停車場を離れ、大通りを歩いている。
　どうやら、銀座通りみたいだ。
　前を見ると、人だかりというか、人の行列ができている。
　行列の向こう、その先頭は、どうやら、歌舞伎座の入り口みたいだった。

（時間つぶしだ）
　祐介は、そうつぶやきながら、行列の後に並んだ。
（おじさんや、おばさんは、俺のこと、待っているだろうな）
　祐介は、憂鬱だった。

　芝居を見た。
　が、筋書きは、ほとんど覚えていない。

（何という、派手な衣装だ）
　そんなことしか、考えられない。

　公演が終わる。
　歌舞伎座を出た。

　家に帰ろうか？。
　しかし、とてもじゃないが、恐ろしくて帰れない。
　今、きっと、店では、叔父と叔母が、番頭と話し込んでいるだろう。

（今日は、ともかく、どこか旅館にでも泊まらなくては…）
　祐介は、そんなことを考えながら、市電の停車場に来ていた。

（そうだ、こうなったら、旅館よりも妓楼だ）
　少し、元気が出て来た。

（いつものところじゃ、いけないな。ひょっとして、あの女に出会うかもしれないし…）
　祐介は、お紺のことを思い出している。
　けっこう、あの、頭を叩かれたことを思い出す。

　市電の座席に座り、目を瞑った。
　なぜか、女の顔が思い浮かび、それがかき消せない。

　あれから、お紺にも、そして、良江にも会いに行っていない。
（ひょっとしたら、良江のやつ、もう、質屋のおやじのところに、嫁入りしたかもしれないな…）

　が、良江のことより、お紺のことが、よけいに想われる。
（あの女に会いたい…。しかし、あいつは、俺みたいな男とは会いたくないだろうな…）


　祐介は、いつも行く妓楼を避けた。
　が、今居る妓楼も、前に一度来たことがある。
　むろん、この妓楼では、なじみの芸妓（げいこ）はいない。
　女のことは、女将に任せた。何しろ、今夜は、時間さえつぶせればいいのだ。
（今日はだめだ。が、明日は、ともかく、叔父の家に行き、叔父と叔母にあやまろう…）

　女が来た。
　なかなかの美人だ。
　祐介は、急に元気になった。
　おなかが空いた。
　そういえば、歌舞伎座で、お客の中には、桟敷で折り詰めの弁当を食べている連中もいたが。その時は、全然食欲がわかなかったのに。
　若くて、きれいな女を見て、俄然、食欲も湧いて来たみたいだ。

「ここは、外からお寿司を持って来てくれるかい？」
「ええ」

「じゃ、上にぎりを、二人前、頼んでくれるかい？」
「はい」

　目の前の、色白で、目鼻顔立ちの整った女は、名前を、「お澄（おすみ）」と言った。
　女の、江戸前寿司の食べっぷりが、小気味良い。
　で、祐介は聞く。
「君は、ここの専属かい？｣
「いいえ。松前さんのところにも行くんですよ」

「えっ！」
　祐介は大きな声を上げた。
　松前という妓楼は、まさしく祐介の行きつけの妓楼であり、お紺や良江が、呼ばれてやって来るところなのだ。

「だって、わたしは、置屋（＝芸子をたくさん抱えていて、妓楼、揚屋・茶屋などからの注文によって、芸子たちを差し向ける商売宿のこと）にいるんですもの」
「そうかい。で、何人くらい、いるの、君のところは？」
「２０人はいるわね」

「そうかい」
　祐介は、そう言いながら、ひょっとして、お紺も、このお澄とかいう芸子の置屋に、所属しているかもしれない、と思う。
　とすれば、もし、この女と寝れば、やがて、お紺に知れるかもしれない…。
　祐介は、憂鬱になる。世間とは狭いものだ。

　良江の身請け話を断って、お紺に、怒られたのだ。

　お澄と寝れば、お紺のやつに、また、『この浮気者！』と、蔑まされるにちがいない。
　芸者遊びも楽ではないわ、と祐介は思う。

（これなら、旅館でひとり、ゆっくり寝た方がましだ）
　祐介は、帰り支度をする。

「ねぇ、遊んで行かないの？」
「それがねぇ、うちのおふくろ、朝帰りでもしようものなら、うるさくてね」
「そうなんですか？」
　女は、不服そうに言う。
　今夜は、銭にならないお客をつかまされた、ということだろう。

　祐介は、ひとりで、廊下を歩いていく、玄関口をめざして。
　と、廊下の角っこで、男と女が抱き合っている。

（くそっ、こんなところで…）
　祐介は、しかし、そっと、そこを静かに通り抜けようとする。が、女が突然、こっちを振り向く。
「あっ！」
「あっ！」
　ふたりして、同時に声を上げる。

「あんたは！」
「おまえは！」

「ナンデ、こんなところに居るのよ」
　女は、完全に、こちらを向いている、相手の男は放っておいて。

「それより、おまえさん、お客さんのお相手をしなくっちゃいけないよ」
　実際、祐介が見るに、男の方はどうしたらいいか、途方に暮れたような顔をして、突っ立っている。
「いいのよ。こちらのお客さまは、もう、お帰りになるんですから…」
「でも、ちゃんと、送ってあげなくっちゃ、玄関先まで」
「あら、そうね」
　女は、祐介に背を向け、男の手を取って、向こうに行く。
　と、女が振り向いた。
「ちょっと、あんた、ここで待っていなさいよ。話があるからね」
「……」

　祐介は、お紺の後ろ姿を見送っている。
　が、お紺のやつ、男の客の腕に、すがっていやあがる。腹立たしい。俺ときたら、あいつに、あんな風に、馴れ馴れしく、枝垂れ（しだれ）かかられたことはない。

（俺って、やきもちをやいているんだろうか？）
　祐介は、廊下の庭側についている、てすりに腰を当て、突っ立ちながら、考えている。

（あいつ、何の話があるんだろう）
（それにしても、あのお澄とかいう女と一緒でなくて、よかった）
（が、あいつときたら、ホントに、浮気もんだね。色んなお客に媚びを売っていやぁがる…）

　待っているのだが、お紺のやつ、なかなか戻って来ない。
　祐介は、帰ろうと思う。
　考えてみれば、あの女に義理立てするべきものは何もないはずだ。あの女に借金しているわけでもないんだから。
　がしかし、帰れない。
　たぶん、あの女の顔が、もう一度見たいのだろう。例え、叱られても、文句を言われるにしても。

　ずいぶんと待たされる。
　たぶん、あの女のことだ、玄関先で、あの男性客と、いちゃいちゃしているにちがいない、『今度また来てね、指切りげんまんよ』とかなんとか、言いながら…。

　祐介が、てすりに、もたせ掛けていた体をはずし、背伸びをして、あくびをしようとした時だった。
「あら、お待たせ…」
「……」
　祐介は、何故か、機嫌がわるい、女が愛嬌を振りまいているのに。

「さぁ、行きましょ」
「どこへ？」

「ここの女将と、交渉して来たの」
「えっ？」

「わたし、からだ、空いているの」
「で？」

「あなたが、それで、わたしのこと、指名してくれた、ってことで」
「指名なんかしてないのに」

「いいじゃない。まだ、時間、早いわよ」
「でも、俺、明日は…」
　そう言いながら、祐介は、明日、叔父・叔母の家に行かなくてはならないことを思い出した。それに、今、うちに帰ったら、てぐすねを引いて待っている、叔父・叔母に、こっぴどく叱られるにちがいない。それよりは、まだ、この女に説教されている方がましかもしれない…。

「ああ、そのぉ、お酒を飲むだけなら、いいかもな…」
「何よ、それ」

「つまり、その、あまり、説教はしないで欲しい…」
「説教なんか、しないわよ」

「ああ、それなら、いいかな？」
「でも、お灸はすえるかもよ」

「えっ、そんなの、勘弁してくれよ」
　祐介は帰りかけた。やはり、今夜はどこか旅館に泊まった方が無難だ。

「ともかく、お部屋を取ったから、そこへ、行きましょう」
　女に、祐介は腕を取られていた。
　女から、いい匂いが伝わって来る。
　やはり、祐介は、女が好きらしい。お紺というより、一般的に、女そのものが…。

　祐介は、部屋に落ち着き、女に酒を注がれている。
　そして、女にも酒を注いでやる。
「で、さ、何か、俺に話があるんだろ？」
「ううん、別に」

「だって、さっき、廊下で、話があるから待っていて、と言ってたじゃないか、君は」
「そんなこと、言ったかしら、わたし」

「言ったよ。確か、そんな風なことを。でないと、俺、あの廊下で、待ったりしてないもの」
「そうよね。あんなところで、１５分も、２０分も、突っ立って、待ったりはしないわよね」

「うん？」
「わたしね、こっそり、物陰から、あなたのこと、見てたのよ」

「えっ？」
「だって、しかたがないじゃないの、あなたが本気かどうか、知りたかったんですもの」

「何が？」
「馬鹿ねぇ。そんなこと、わたしの口からは言えないわ」
　女がにっこりと笑った。えらく、媚を含んでいる。

（ああ、そうか。こいつの家に朝飯をごちそうになった時、俺は、こいつに、好きだと、言ったんだ…）

　祐介は、盃の酒を飲む。
「悪かったね。ただ、僕も忙しくてね…」

「お仕事？」
「いや」
　そうなのだ、仕事が忙しかったわけではない。
　確かに、こいつに頭を叩かれて。
『店の仕事に専念しなくては…』
　と、思ったことは事実なのだが。
　それも三日坊主。
　洋画の封切り館に、行ったり。
　できたばかりの室内プールに行って、泳いでみたり…。

「じゃ、何で忙しかったわけ？」
　女はしつこい。
　で、祐介は、言った。
「その、叔母がさ、うるさくて」

「ふーん、どうせ、お見合いをしなさい、とか」
「えっ？」
　祐介は大げさに驚く。
「どうして、そんなことが、わかるんだい？」

「だって、わかるわよ、何となく」
「そういうもんかね」

「それで、そのお見合いの話、どうしたの？。ちゃんと、ことわったんでしょ」
「いや」

「どうしてよ」
「だって、叔母はすごく熱心だったし…」

「はっきりしないと、向こうのお嬢さんだって、傷つくわよ」
「それが、もう傷つけちゃった！」

「えっ！？」
　女が大きな声を上げる。
　見ると、目ン玉を大きく広げている。

（そんなに驚くことかよ）
　祐介は、自分で自分の盃に酒をそそぐ。

「それがさ、そのお見合いというのが、今日だったわけ…」
「ふん、その調子じゃ、いっぺんに、きらわれたわけでしょ、相手のお嬢さんに」

「それがさ、俺、その見合いの場に行かなくてさ。歌舞伎座に逃げ込んでいたのさ」
「馬鹿！」
　祐介は、頭を叩かれていた。
　目から火花が飛び散ったような気がした。
　この間の時よりは、ずっと、痛い。
　痛さで、涙が出る。

　実際、祐介は、泣けて来た。
　夢の中でも、切腹が怖くて、『あっ！』と叫びながら、目を覚ました始末だ。
　この現実の世界であれば、昨年８月、日本はドイツに宣戦布告したのだ。俺に、戦争出仕命令の赤紙の通知が来たって、『いやだ、いやだ』と、子どもみたいに駄々をこねるだろう。
　が、この女に介錯してもらえるなら、あるいは、死ねるかもしれない。
　祐介は、目に涙を浮かべながら、女に、にじりより、目をひん剥いて驚いている女に抱きついた。

「俺は、俺は、あんたが考えている以上に、くだらない男なんだ」
　祐介は、女の胸にすがりながら、子どものように、泣きじゃくっていた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）