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53.

　稀美恵の週末は、夫の久雄と息子の光雄の３人で、郊外に一区画を借りている農園で野菜作りなどを楽しむのが常だった。
　だが久雄は２年前から、息子の光雄は半年前から同行しなくなり、今では稀美恵ひとりが農園の土と空気を楽しんでいた。

　この日もそうだった。
　夫は休日だったが休日出勤、息子は昨日から同い年の従弟の家に泊まりに行っていた。

（ここに来るのは、もう休日じゃなくてもいいのね・・・・）
　稀美恵は心の中のブラックホールに落ちて行きそうだった。
　救いは農園の土の香りと爽やかな風だった。
「ふぅ～～いい風・・・・」
「本当に気持ちのいい風ですね！」
「えぇ・・・・エッ！？」
　不意に声を掛けられた稀美恵は、驚いて振り向き声の主を見た。

「あぁ、失礼しました。僕はそこの区画を借りている橘と言います」
　橘は汗と土で汚れた顔を拭おうともせずに、白い歯を見せて照れ笑いを浮かべていた。

「うふっ」
　農園を吹き過ぎる風以上に、橘の笑顔は爽やかに感じられた。
　いつも仕事のことばかりを考えて気難しい顔の夫とは対照的だった。

「わたしは浅丘稀美恵と言います」
「ここは気持ちがいいですね！少し休憩しませんか？コレ」
　橘は缶コーヒーを稀美恵に差し出した。
「意外と美味しいですよ、ブラックは」
　そう言うと、橘はゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。

　缶コーヒーは飲んだことが無かった稀美恵だったが、橘の飲んでいる姿を見て、自分も少し口にした。
「アッ！」
「ネッ、結構、美味しいでしょ？僕もドリップばかりだったのですが、意外だったんです。思い切って飲んでみたら・・・・分からないものですね！」
　そう、本当に分からないものだと稀美恵は思った。

（何も不自由のない生活、子どもにも恵まれ家庭は平和・・・・家もあれば夫の両親は既に他界・・・・他人が見れば幸せな家族、幸せなわたし・・・・）

　橘は飲み干した缶を片付け、稀美恵に聞いた。
「今日はおひとりなんですか？前にお見かけした時は、ご主人とお子さんが・・・・」
「えぇ、皆、それぞれ予定があって、橘さんもおひとり？」
「そうなんです！妻と娘はふたりで出掛けまして・・・・２：１なので、最近、僕は取り残されてばかりで」
「うふっ、それはそれは・・・・」

　稀美恵は久し振りに自然と明るい微笑が浮かんだ。

　橘は稀美恵より２歳年上で平凡な銀行員だと言い、仕事上の面白いエピソードなどを話し、稀美恵を笑わせた。

　お昼近くまで橘も稀美恵も黙々と野菜や花の手入れに勤しんだ。
「浅丘さん、お昼は？」
「もうそんな時刻ですか？」
「えぇ、もうじき」
「わたしはもう帰ろうかと」
「何かご予定が？」
「いえ別に・・・・」
「あっ、すみません！余計なことを聞きまして。僕はこの少し奥にある日帰りの温泉で昼食を摂って帰ろうと、もし宜しければご一緒にいかがかですか？」
　爽やかな笑みを浮かべ、橘は稀美恵を昼食に誘った。

　稀美恵はすぐに断ろうと思ったが、何故か声が出なかった。
「いいところですよ！山菜料理に温泉、先に汗を流してから食事をすれば」
「えぇ」
　稀美恵は自分でも分からないまま頷いていた。
（食事するだけなら・・・・）

　橘は自分の車に稀美恵を乗せ、昼食の出来る日帰り温泉に向かった。

　10分か15分か、確かにそんなに遠くはなかった。
　鄙びた風情を感じさせる温泉旅館だった。

「日帰りの温泉と食事を」
　橘は旅館の従業員に入口で用件を告げた。

「今日は奥様とご一緒なんですね！それじゃ、こちらに・・・・」
　従業員は夫婦と間違えているようだったが、ふたりが否定する前に案内に立って先に進み始めた。

「まぁ、いいんじゃないですか？いつもはひとりだったから」
「えぇ」
　ふたりは小声で会話をし、稀美恵も別に構わないと思った。

「こちらにどうぞ！お湯を先にしますか？それともお食事を？」
「そうですね・・・・面倒ですから一緒に！」
「うふっ」
　稀美恵は農園での会話から橘らしいと微笑んだ。

「それではすぐに食事を運びますので、後はご自由に。温泉は露天でも室内風呂でも、どちらでもご利用いただけます。４時までにご連絡下さい。それではごゆっくりと・・・・」
　従業員は丁寧に説明をし、部屋から出て行った。

「個室に通されたのは初めてだ」
「きっと夫婦だと思っていたから、そのせいですね」
「あぁ、そうか！」
　橘と稀美恵は部屋の中を見て回った。

　６畳の和室にテーブルとＴＶ、小さな旅館の風情だった。
　障子を開くと板の間があり、窓の外は露天風呂になっていた。
「へぇ～個々に露天風呂があるんだ・・・・」
「いつも立花さんは？」
「いつもは玄関横の食堂のようなところで他のお客と一緒に食事をし、その奥の大浴場でお風呂に入るんです。まぁ、大浴場と言っても、10畳ぐらいの浴場で・・・・」
「本当に家族用に出来てるんですね」
　板の間の突きあたりのドアを開けると、そこは小さな檜風呂があり、窓が大きく開き檜の香りがしていた。
「まぁ、檜の香りが・・・・う～ん、いい香り」
「本当ですね！」
　部屋に戻り奥の襖を開けると、そこには蒲団が一組敷かれていた。
「ここは寝室ですね」
　橘は慌てて襖を閉じた。

　それと同じくして、従業員が食事を運んできた・・・・。

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2009.2.23掲載

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秋水さんの他作品（2009.2/2現在）
『淫香』	『淫蜜』	『サブリミナル』
『サイコ・・・千年王国』	『ＳＥＸ仕置人　ミカ』	『劇団ＩＮ＝イン』
『青春放浪記』	『淫界大迷宮』	『雨宿り・・・』
『実践結婚相談所』	『プロフェッショナルのオンナたち』	『萠・・・その性』
『性春浪人』	『市役所の人妻たち』	『平成の団地模様part1』
『ベビーシッター亜季』	『主婦の中に潜むオンナ・・・』	『性少女・・・Ａ』
『引越しサービス』	『犯す！』	『平成の団地模様part2』
『恵子・・・不惑の時』	『撮られた女』	『哀しくも悦びの・・・性（さが）』
『強姦日記』	『続平成団地模様』	『異次元ＰＯＳＴ』
『妄想と現実の狭間で』	『遠い日の記憶』